さざ波の想い


「そう言えば、眼鏡はまだ直らないの?」
 ふと、そんな事を言われる。
 やっぱり、眼鏡をかけているイメージの方が強いんだろうか。
 あたし自身は、もうあんまり気にしていなかったけど。
「もう直ってるわよ。ほら」
 そう言って、鞄の中から眼鏡を取り出す。
 それでも、少し視力が悪いから眼鏡をかけていたわけで。
 念のために持ち歩いてはいた。
 普段からかけていないのは……まぁ、なんとなく。
 修理中に、眼鏡のない生活に慣れてしまっただけ。
「あ、ほんとだ。でも、だったら……あ」
 最初は不思議そうだった愛佳の顔が、だんだんと笑顔になっていく。
 それも、ニッコリと言う感じじゃなくて、ニンマリと。
「そっか〜……うふふ」
「な、なによ?」
 嫌な予感がして、椅子ごと後ずさる。
 愛佳のこういう笑顔は、ほとんど見たことがない。
 楽しいおもちゃを見つけたような、そんな雰囲気。
 あんまり、そういうのを欲しがる子じゃないんだけど。

 ……結論から言えば、この時点で逃げるべきだったんだと思う。
 延々と、そのネタでからかわれるぐらいなら。

「だから何? 何なのよ?」
 なおも怪訝な声を上げるあたしに、返ってきた言葉は。
「うふ……河野君に、何か言われたの?」
「な……」
 完全に、予想外の内容だった。
「なんでそこであいつの名前が出てくるのよっ」
「由真、し〜、し〜」
 思わず立ち上がって叫んでから、ここが店の中だと気付く。
 案の定、客達の注目を一身に集めていた。
 ……嬉しくない、というか恥ずかしい。
 かと言って、逃げるわけにもいかず……仕方なく、愛想笑いをしながら座りなおした。
 改めて、小声で問いただす。
 必要以上に、小声で。
「まったく……なんでたかあきの名前が出てくるのよ?」
「……呼び捨て?」
「あんな奴、呼び捨てで十分よ」
 特に気にする事もなく、そう答える。
 実際に呼び捨てなのには、それなりの理由もあったりするのだけど。
 そんな事情は、説明してもしょうがない。
 それに、その程度の事は、大したことじゃないし。
 だけど、愛佳にとってはそうではなかったようで。
「ふ〜ん、呼び捨てなんだぁ〜……そっかぁ〜」
「……え?」
 言われてみて、もう一度考えてみる。
 一般的に、相手の名前を呼び捨てる意味を。
 それは例えば、愛佳の事を呼び捨てて居るのと同じ意味で。
 ……まして、相手が男の子だったりすると、それは。
「な、べ、別にそういう意味じゃないわよっ」
「うんうん、わかってるから」
 あわてて否定するけど、もう遅い。
 愛佳は、1人で納得したように笑っている。
 多分もう、愛佳の中ではラブラブな構図が出来上がっていたりして。
「う……」
 実際にそんな図を想像してみて、寒気がした。
 あたしと貴明は、絶対にそんな関係なんかじゃない。
 だったらどんなと聞かれても、うまく答える事は出来そうに無いけど。
「そういえば最近、よく一緒に居るよね? この前もなにか貰ってたみたいだし」
 事実だけを見ると、そう見えてしまうのも確かなのだ。
「あんなの、向こうが勝手にっ」
「でも、由真も嬉しそうだったよ?」
 当人達が認めなくても。
 外から見れば、そんな事は些細なことでしかなくて。
「せっかくだから、色々と聞かせてよ。ちゃんと祝ってあげるから、ね?」
 そうした場合、もはやあたしに拒否する権利はない。
 何があったって、質問攻めにさらされるんだろう。
 と言うか、逆の立場ならあたしだってそうする。
 それだけ、他人のそういう話には興味があるし。
 それに……なんだかんだ言っても、こういう所は頑固なのだ、愛佳は。
「わかったわよ……そういうのじゃないから、期待されても困るけど」
 今回は仕方なく、肩を落とすように頷いた。


「それにしても、ほんとに最近だよね? 一緒に見かけるようになったのって、4月になってからだと思うんだけど」
 言われて、思い出す。
 そもそも、最初に貴明を認識した日は……。
「それ以前から、ちょくちょくぶつかってたわよ。大体、3月の最初ぐらいから」
 その日は遅刻ギリギリで、ちょうど目の前にいたあいつに、ブロックされた形になったんだっけ。
 そのせいで遅刻になったんだし、今思い出してもむかつく出来事。
「そうなんだ……あ、そう言えば、その頃に河野君と揉め事起こしてたよね」
「……どれの事?」
 正直、揉め事と言われても、心当たりが多すぎる。
 と言うか、それからずっと、些細な嫌がらせを受けている気がする。
 ……今の今まで、ずっと。
 そんな状態でも、なんだかんだで今まで続いているのは、それはそれで不思議なんだけど。
「内容までは、よくわからなかったんだけど。朝の駐輪場で、なにか人だかりが出来てたから」
 でも、確かにしょっちゅうぶつかってたけど。
 基本的に2人だけで、周りに人が集まってきた事はそんなにない。
 些細な衝突が多かった、という事もあるけど。
 ある意味では、2人だけの世界だたと言えなくもなかった。
 そんな中で、人が集まってくるほど大きな衝突は……。
「それ多分、眼鏡が壊れた時。言ってなかったっけ?」
「あれ? 確か誰かにぶつかったって……って事は、河野君とぶつかったの?」
「そうよ」
 そしてそれが確か、初めて話した時。
 いちいち癪に障る態度で、文句を言っていた記憶しかないけど。
「あの時は、河野君に聞いてみても要領を得なかったのよね。向こうは向こうで、自分がからまれたって思ってたみたいだったし」
「な……そんな事言ってたの? あいつ」
「うん、そうだけど?」
 その言葉を聞いて、また頭に血が上る。
 だって、そもそもの発端は……。
「そもそもはあいつが2度も3度も前を邪魔してくれたからでしょうが。あの時だって、ちょうどあたしの自転車の行く先でボケーっとしてて。ぶつかったら全部あたしのせいだっての? ああもう……」
「由真、落ち着いて」
「何よ、あたしはちゃんと落ち着い……て……」
 言われてまた、いつの間にか立ち上がっている自分に気付いた。
 もちろん、店の中の注目も集めていて。
「……落ち着いて、ね?」
「……うん」
 そしてまた、静かに座りなおす。
 どうもあいつの話になるとペースが乱れる。
 それは、あいつと一緒に居るときもそうなんだけど。
 ……なんなんだろう、この感覚は。
「でも、それから喧嘩ばっかりってわけでもないよね? 何か、きっかけでもあったの?」
「きっかけ……ねぇ……」
 どうなんだろう。
 それからあたしの方は、特に態度を変えたつもりはない。
 実際、いつも目障りだったし。
 何度も喧嘩売られて、こっちからも仕掛けて。
 たまには自爆もして、巻き込んで迷惑をかけたと思う事もあるけど。
 借りなんて作りたくないから、それだけはきっちり返して。
 あたしの中では、それでもう完結している事。
 最近はまた、厄介な事に巻き込んでるけど……じゃなくて。
「そもそも、今でも喧嘩ばっかりよ。そんな関係なんだってば、あたしと貴明は」
「……喧嘩するほど、仲がいい?」
「どうして信じてくれないかな」
 ほんとに、そういうのじゃない。
 間違っても恋人なんかじゃないし、きっと友達ですらない。
 あたしはそう思ってるし、あいつだってきっとそう。
 多分……お互いに、迷惑しかかけてないから。
「でも、河野君といる時の由真、楽しそうだったよ? あたしが見た事ないぐらい、すごく活き活きしてたし」
「……気のせいじゃない?」
 だから、認めるわけにはいかないのだ。
 ……一緒に居て、少しだけでも、楽しいなんて思ってしまっている事は。


「河野君の方も、由真と一緒に居るときは楽しそうなんだよね」
「……そうなの?」
 あたしはあたしと居る時のあいつしか知らないから、その辺はよくわからない。
 けれど、愛佳とあいつは同じクラスだから、そういうのも見えてくるのだろう。
 ただ、あたしの居る時のあいつが楽しそうだとは、あたしには思えないんだけど。
「クラスでも、仲が良いのは向坂君ぐらいで。別に孤立してるわけじゃないんだけど……でも、クラスの女の子と話してるのは見たことないの。どうも女の子を避けてるみたいで」
「なにそれ。あたしが女だって見られてないって事?」
 別に貴明からどう思われてようとあたしには関係ないけど。
 それとは関係なく、それが事実ならムカつく。
 ……あたしの方は、ちゃんと男だって意識してるのに。
「そんな事はないと思うけど……でも、楽しそうなのは確かだよ? 向坂君と居る時よりも、ずっと」
「じゃあ、珍獣か何かと同じ扱い?」
「確かに由真は『ゆま』だけど……って、そうじゃなくて」
「……?」
 なんだろう?
 何か、発音が変だったような。
 ……まぁいいか。
「それに、何度か女子と一緒に居るのを見かけたわよ? ウチの制服を着てて……なんかちょこまかしたのと、スラッとした美人」
 それも、つい最近の事。
 そもそも貴明を認識したのが最近だから、当たり前ではあるけど。
 あの時も楽しそうに……少なくとも、普通に笑いあってた。
 それはあたしといる時よりも、随分と自然に見えて。
「えーと……柚原さんと、向坂先輩かな?」
「知ってる人?」
 あたしは見覚えが無かったから、違う学年なんだろうな、ぐらいの認識しかなくて。
 わざわざ問い詰めるような事でもないから、気にしない事にしていたけど。
 アレだけの説明でわかるって事は、よく目撃されてる組み合わせなんだろうか。
「向坂先輩の方とは、何度か。向坂君のお姉ちゃんで、ずっと他の全寮制の学校に居たんだけど、今年からウチの学校に転入してきたんだって。タカ坊とか呼んでたから、昔から仲が良かったみたい」
「……タカ坊?」
「うん」
 別に大した事ではないんだけど……なんとなく、引っかかる。
 3年になってから、わざわざ転入してきて。
 何か、特別な理由でもあったんだろうか。
 ……あたしが気にする事ではないし、詮索するものでも無いんだけど。
「柚原さんの方は、河野君達からちょっと話を聞いたぐらい。いわゆる幼なじみで、河野君の家の、すぐ近所の子なんだって。河野君本人が、妹みたいなものって言ってたよ」
「そっか……」
 妹みたいな……か。
 あたしに兄弟姉妹は居ないから、その感覚はよくわからないけど。
 たとえ本来は他人同士でも、家族として普通に笑いあえるのは、少しだけうらやましい気がした。
「それぐらいかな? どっちも幼なじみで、仲はいいみたいだけど。それ以外では、由真だけだよ?」
「だから別に、あいつとはそういう関係じゃ……」
 言いかけて、ふと気付く。
「……愛佳、やけに詳しいよね。『河野君』の事に」
 元々、愛佳の情報網そのものは広い。
 それには何度も助けられてるし、頼りにしてる人も多い。
 だけど……考えてみればそもそも、愛佳も男の子が苦手なはずなのだ。
 それなのに、『河野君』の事だけは、色々と知っている。
 それはつまり、ひょっとすると……。
「えっ、あっ、いや、あたしはそういうのじゃなくてっ」
 愛佳の方も、あたしが言いたい事に気付いたのだろう。
 顔を真っ赤にしながら反論してくる。
「ほら、あたし、書庫で本の整理しててっ。それで、ちょっと前に、それを手伝ってくれただけでっ」
「あいつが?」
 そんな話は始めて聞いた。
 別にあたしの知らない所で、あいつが何をやっていたって関係ないんだけど。
 関係ないんだけど……なんとなく、ムカつく。
 あいつだって、あたしと愛佳が友達なのは知ってるはずだし、それぐらいは言ってくれても。
 ……それは、愛佳も同じなんだけど。
「だから、少しだけ話す機会が多くて、それだけだよ?」
「ふーん……それってやっぱり、仲いいんじゃないの?」
 あたしも少しだけ、手伝った事はあるけど。
 でも、基本的に愛佳が書庫に入れる人間は、そう多くないはず。
 あれは、秘密基地なのだから。
「でも、3月の頃に、少し手伝ってもらっただけでっ。本当に少しだけだし、最近は来てないし……」
「……そう」
 なんだろう。
 なんかこう、ざわざわする感じ。
 その正体がなんなのかは、わからないまま。
「…………」
「…………」
 しばらくの間、静寂が満ちていた。
 結局の所、その気持ちの答えは出ない。
 自分が何を考えているのか。
 愛佳が何を考えているのか。
 それは、悩んでも仕方が無いことかもしれない。
 いくら考えても、今は答えを出せる気がしないけど。
 いつか近いうちに、答えを出さないといけないんだろう。
 ……将来の事と、一緒に。


「でもね、ほんとに安心したのよ?」
「何がよ?」
 愛佳が、急にそんな事を言ってくる。
 その言葉の意味は、それだけではわからないけど。
「いつからかな……悩み事、あるでしょ。あんまり、由真の笑顔が見れなくなって。あたしじゃ無理なのかな、なんて事も思って」
「…………」
 反論も忘れて、じっと言葉を聞いていた。
 その内容に、頷く事は出来なくても。
 ……その声が、あまりにも優しかったから。
「でも、河野君と一緒に居て、その時は楽しそうに笑ってて。ああ、これなら大丈夫そうだなって」
 そういえば、いつからだろう。
 自分に、長瀬由真という型をはめて。
 自分なりに、優等生で居ようとして。
 そんな自分が、嫌いになったのは。
「それで、何かが解決したわけじゃないのかもしれないけど。それでも、あれだけ素直に笑えるなら、きっと大丈夫だから」
 あいつと居る時のあたしは、長瀬じゃない。
 最初の理由は色々とあっても……あいつには、十波由真で通せてる、
 十波の名前も借り物だけど、それでも、長瀬とは違う自分がそこに居て。
「相手も、河野君なら安心だしね。あたしも知ってる人だし……なにより、優しいし」
 そしてそれでも、あいつは側に居てくれる。
 それは、あたしが十波で居てもいい理由になる。
 あいつが何を思って、あたしと一緒に居るのかはわからないけど。
 それでも……信じられるだけのものを、あいつは一杯くれたから。
「だから、ね。こんな事を言うのもおせっかいなんだろうけど。ずっとこのままで、いろんな事が上手くいってくれるといいなって」
「……そうね、ほんとにおせっかい」
 長瀬の名前が嫌いなままでも。
 長瀬の名前を失っても、
 それでも……同じ、由真として。
 その存在を、認めてくれる人が居るのなら。
「でも……ありがと」
 もう少しだけ、由真という自分を、信じてみてもいいような気がした。


 それからも、そんなような話を続けた後。
「今日は、ありがとね」
 帰り道。
 愛佳と並んで歩きながら、また、口にする。
「こちらこそ、楽しかったよ?」
 笑いながら答える愛佳。
 いつもどおりの……でも、言われてみれば懐かしい風景。
 この感覚も、自覚するのはいつ以来だろう?
「色々と、面白い話も出来たしね。うふふ……」
「……いや、だから」
 ……そういうネタでからかわれる感覚は、さすがに初めてのはずだけど。
 だけど、最大の問題は。
 そうやってからかわれるのも、思ったより楽しい、という事だった。
 相手があいつなのは、少し納得がいかないけど。
「また〜。ライバルだって居るんだから、もっと素直にならないと駄目だよ?」
「ライバル、ねぇ……」
 柚原さんと、向坂先輩。
 あいつの幼なじみだという2人。
 その間にあるものが、本当にそんな感情なのかもわからないけど。
 そして、あたしの中にある感情の正体も、まだわからないけど。
 そんな中で、たった1つだけ、慣れ親しんだ感覚は。
「……でも、負けたくはない、かな」
 自分で呟いてから、ハッとする。
 今、何と言った?
 確かに、自分が負けず嫌いなのは認めるけど。
 でも、その勝負の内容は……それに勝つという事は。
「あ、やっぱりぃ〜?」
「ちょっ、いやっ、今のは、そうじゃなくてっ」
 横では思ったとおりに、今の言葉を聞きつけた愛佳が、笑っていた。
 慌てて否定しても、意味が無い事はわかってるけど。
「まぁまぁ。河野由真だって、悪く無いでしょ?」
「だからそれはっ……?」
 それは、ただのからかいの言葉だったのだろう。
 だけどその言葉は、あたしの胸を捕らえた。
 言われてみれば、当たり前の事なんだけど。
 長瀬の名前が嫌いなら、苗字を変える手段だってあるのだ。
 その方法がベストなのかどうかは、さておいても。
「…………」
「……由真?」
 急に黙り込んだあたしに、心配そうに声をかける愛佳。
 自分の名前が嫌いなんて話は、愛佳にはしていないから。
 わざわざ説明する気にもなれないし、それはそれとして。
 ……せっかくだから、からかわれるネタの1つぐらいは、提供してみよう。
 そんな当たり前の事に気付かせてくれた、お礼として。
「……確かに、悪くない、かも」
「……え?」
 そういう返答は予想外だったのだろう。
 愛佳の目が丸くなり……そしてまた、笑顔へ。
 それも、今日見た中でも、一番楽しそうな笑顔に。
「だよね〜。河野君と一緒の苗字、だもんね」
「だから別に、そういうのじゃなくて」
「また〜。だって、悪くないってそういう意味でしょ?」
 そしてまた、からかわれながら歩き出す。
 それは、本当に悪くない気分だった。
 問題は何一つとして解決していないけれど。
 それでも、全部が何とかなってしまいそうな程に。


 結局の所、今はまだ負けているんだと思う。
 自分の気持ちもわかっていないあたしでは。
 でも、本当に負けたくない相手は。
 それは、あいつの幼なじみなんて2人じゃなくて。
 横で笑ってくれる、愛佳でもなくて。
 他でもない、あいつ自身だから。

 いつか、あいつに勝つことが出来たなら。

 その時は……その時こそは。
 色々な事に、決着をつけよう。

 この、あたしの中の小さな想いにも。

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