風の辿り着く場所 ――Air place



0.朝影 ――brandnew place

 軽く軋むような音を立てて、扉が開く。
 少しの段差を超えた先には、白い世界が広がっていた。
「……寒い」
 呟いた後ろで、今まで乗っていた電車が走り去っていく。
 後に残された物は、見知らぬ風景。
 感じたことのない冷気が、服の上からでも突き刺さってくるようだった。
「と言うか、ここはどこだ?」
 初めて見る風景。
 真っ白な世界。
 吐く息までもが、白い。
「……寒い」
 意味もなく、もう一度呟く。
 そうしたところで、寒さが和らぐわけでもない。
 それどころか、一層寒くなった気がする。
「とりあえず、移動するか」
 ここでじっとしていても仕方がない。
 動けば、寒さも少しはマシになるはずだ。
「……行くか」
 鞄を背負い直し、歩きだす。
 ふと、見上げた空だけは、他の街と変わらずに。
 その事実に導かれるように。

 終わりのない旅。
 永遠の捜し物。
 それは、遠い空の下にあって。
 当てもなく、辿り着いた世界。
 この街は、何を見せてくれるのだろうか。

 ――見た目だけは何も変わらない、この空の下で。


1.凍土高原 ――frozen field

 まずは人通りの多いところを捜す。
 時間が悪いのか、駅前も人はまばらだった。
 駅の規模からすれば、もう少し人が居てもいいはずだが。
「まぁ、寒いからな」
 なんとなくまた、呟いてしまう。
 地元の人なら、この寒さにも慣れているのだろうか。
 地元民でもなく、此処より北の生まれでもない俺には、やはり寒い。
 そんな寒い地方に、わざわざ寒い季節を選んでくることを決めたのは自分だった。
 ……だんだん、腹が立ってくる。
「……くそっ」
 とは言え、怒りをぶつける先は自分しかない。
 仕方なく、それを誤魔化すように歩き続ける。
 動いてさえいれば、少しは寒さも誤魔化せるはずだ。

 そうして。
 気が付くと、俺は山道を歩いていた。
「どこだ、ここは」
 確か、俺は人通りが多い方向を目指していたはずなのだが。
 寒さと怒りを誤魔化すことに没頭して、周りに人が居なくなっていたことにも気が付かなかったらしい。
 当然ながら、こんな山中を通りがかる人はまず居ない。
「こうなれば意地だ」
 特に意味のないプライドの元、そのまま山を登り続ける。
 頭上を樹に覆われたここは、白で埋め尽くされる事はない。
 それでも、樹々の間をすり抜けてきた白が溶け、足元はぬかるんでいる。
 歩くこと自体には慣れていても、さすがにこの道は歩きにくかった。
 実際に何度も、足を取られて転びそうになる。
「何をやってるんだろうな……ん?」
 愚痴を言いながらも、登り続ける。
 すると、急に樹々が途切れ、見晴らしのいい場所に出た。
 なだらかな斜面の草地で、眼下には街が一望できる。
 白に包まれていた世界の中で、不思議と色に包まれた場所。
「……駅があそこか」
 俺が降り立った駅は、ここからはかなり小さく見える。
 かなりの距離を無駄に歩いて来た様だ。
「まぁ、いい」
 せっかくなので、眼下の街並みを頭に叩き込む事にする。
 大体の位置さえ掴んでおけば、道に迷ってもフォローが効く。
 それぐらいの方向感覚は、旅を続けている者として当然だった。
「街が把握できただけ良しとするか」
 それよりも、そろそろ戻らなければ。
 商店街らしき場所も見つけたが、日が傾けばさすがに人は居なくなる。
 元来た道を戻ろうと、踵を返す。
 ふと、足元を軽く引っ張られる感覚がした。
「……なんだ?」
 見てみると、そこにはまだ子供と思われる、小さな狐が1匹。
 一生懸命に、俺のズボンの裾をくわえて引っ張っていた。
 無論、子狐に引っ張られたところで普通に歩くことは出来るのだが。
「どこまでやる気だ?」
 無視してそのまま歩いても、どこまでも着いてきた。
 振り払ってみても、しつこく食らいついてくる。
「ったく、何がしたいんだ?」
 仕方がないので、立ち止まって問いかけてみる。
 子狐相手に言葉が通じるわけもないが。
 それでも、これ以上無視は出来そうにない。
 少しは相手をしてやるかと、しゃがみ込んだ。
「厄介な……あ?」
 その隙に子狐が、俺の後ろに回り込んだ。
 そして、ズボンの後ろのポケットから、何かを引きずり出す。
 何か……薄汚れた、ぬいぐるみを。
「っ、待てっ」
 叫んでみても、言葉の通じない狐が待ってくれるはずもなく。
 そのまま、草地の奥へと駈けていく。
「ちっ」
 盗られた物は、ただのぬいぐるみ。
 だけど、俺にとっては大事な商売道具だ。
 こんな所で、失うわけにはいかない。
「こらっ、待てっ」
 急いで後を追いかける。
 幸いにも、この場所は見晴らしは良い。
 森の方に入られなければ、何とか見失わずに済みそうだった。

「……見失ったか」
 実際に見失わずにいれたのは、3分程度だった。
 いくら見晴らしがよかろうと、根本的なスピードで勝てなかったのだから仕方がない。
「こっちの方だったはずだが……」
 もう1つだけ幸いだったことを挙げるなら、狐がずっと真っ直ぐ走ってくれたことだろう。
 そのため見失っても、方向の見当だけはつく。
 当てになる情報でもないが、他に手がかりがなければ仕方がない。
 同じ方向に向かってただ、走る。
 しばらく進むと、ぽっかりと、草の生えていない空間に出た。
 不思議な空白。
「……あった」
 その真ん中に、俺の人形が置かれていた。
 周りには、さっきの狐の姿は見えない。
 ここで落としていったのだろうか。
 それにしては、人形はきっちりと座っていた。
 なんの違和感もなく……まるで、もう何年もそこに置かれていたかのように。
「……」
 とにかく、人形の近くまで歩く。
 特に変なこともなく、すぐ側にある人形。
 なのに俺は一瞬、人形を手に取るのを躊躇した。
 何かに呼ばれたような、不思議な感覚。
「……?」
 なんとなく、目を閉じた。
 目蓋に浮かぶのは、狐の幻像。
 この場所でたった1匹、待ち続ける。
 此処には居ない誰かを。
 届かない温もりを。
「……なんだ?」
 ゆっくりと、目を開く。
 そこはさっきと、同じ丘の上で。
 それこそ幻の様に、今まで見ていた風景は消えていた。
「狐に化かされた、か」
 そう呟いては見たが、不快な感じはしない。
 どこか懐かしく、温かい幻。
 それに触れた俺まで、暖められるような。
「まぁ、頑張れよ」
 せめてもの言葉を呟き、人形を手に取る。
 暖かいなんてことはなく、風に晒されて冷え切っていた。
「……じゃあな」
 また同じように人形をポケットに仕舞って、歩きだす。
 今度は子狐も現れなかった。
 しかし、余計な時間を使ってしまったのは確かだ。
 早く人の居る場所へ行かなければ……。


(今の……誰?)
(あぅーっ……よく分からないけど……)
(……憎い)


2.風を待った日 ――waiting for...

 丘まで登ってきた道を戻っていく。
 山の中であろうと、道なりに歩いて来た以上は、道なりに歩けば戻れるはずだった。
 駅前まで出てしまえば、当たり前のように商店街までは近い。
 それが一番確実なのだが。
「……ここはどこだ?」
 そもそもが、気が付いたら辿り着いていた丘だ。
 それまでの道を覚えているはずがない。
 方角さえわかれば何とかなるのだが、山の中ではそれも難しい。
 目印となるべき太陽は、厚い雲に隠されていた。
「とりあえず、下りてきてはいるようだが……」
 どの方向に下りたのかがわからなければ、さっき見た街並みも役に立たない。
 わかりやすい場所に下りることを祈るだけだった。

 山を下りると、遊歩道のような場所の真ん中に出た。
 本来は使わないような道を下りてきたらしい。
 方向は……良く覚えていない。
「駄目だ……」
 山に近すぎて、よく見えなかったのだろうか。
 ともかく、歩きだすことにする。
 どちらかの終点にぶつかれば、また変わるかも知れない。
 それに、人に出会う可能性もあるだろう。
 困ったときは、とりあえず動く。
 ……そうでもしないと、相変わらずの寒さに耐えれそうになかった。

 しばらく歩くと、公園が目に入った。
 割と広く、綺麗に整備もされているが、人の姿は見えない。
 真ん中にある噴水だけが、静かに音を立てていた。
 ここなら、もう少し奥まで行けば、人も居るかも知れない。
「……腹減った」
 気が抜けたのか、急に空腹を覚えた。
 考えてみれば、この街に着いてからずっと歩き通しだ。
 歩いた距離を考えれば、時間もかなり経っているだろう。
 正確な時間はわからないが。
「……ん?」
 もう一度見回した先に、大きな時計。
 そしてその下に、女の子も1人。
 チェック柄のストールを羽織った、小柄な少女。
「ちょうどいい」
 道を聞けるのもだが……もう1つ、やることがあった。
 そのために、人通りの多い場所へ行きたかったのだが。
 ここでも、人が居ることに変わりはないのだから。
「さぁ、楽しい人形劇の始まりだ」
 少女の前に行き、ズボンのポケットから人形を取り出す。
 少女はきょとんとしているが、気にしない。
 人形を地面に置き、手を放す。
 やがて、人形がひとりでに立ち上がり、歩きだした。
 とことことこ……
「……」
 とことことこ……
「……」
 少女は、無言。
 楽しくて声も出ないか。
 そんな俺の意識に釣られるように、人形の歩くスピードも上がる。
 とことことこ……つるっ
「……」
 足元が凍っていたのだろう。
 盛大に転ぶ人形。
 じたばたともがくが、氷の上ではうまく立ち上がることが出来ない。
「はっ」
 気合いを入れてみるが、結果は同じ。
 氷の上でもがく姿は、見ようによっては可愛いかもしれない、が。
「……助けてあげないんですが?」
 ずっと無言だった少女から、小さく突っ込みが入った。
「……確かに」
 納得して、人形を掴む。
 そしてそのまま、ズボンのポケットへと戻した。
 最後は決まらなかったが、これで人形劇は終了だ。
「さて、と」
「はい?」
 不思議そうにしている少女に向かって、手を差し出す。
 言わなければならないことがあった。
「金を出せ」
「どうしてですか?」
「俺の芸を見ただろう」
「芸、ですか? 面白くはなかったですけど」
「ぐは」
 その返事を聞いて、思わず膝を突いた。
 俺はずっと、これで金を稼いできたんだから。
 お金をくれたのは大抵、子連れの親の方だったが。
(……たまたまだ、たまたま)
 そう自分に言い聞かせる。
 それもこれで何度目かはわからないが、今はそれを気にしてもしょうがない。
「でも、芸と言うことは何かタネがあるんですか? 全然分からなかったですけど」
 面白くなくても興味は引いたらしく、少女から質問が来た。
 俺の方はそんな気分ではないので、投げやりに答える。
「いや、これにはタネも仕掛けもない」
「……本当ですか?」
 明らかに信じていない目だった。
「だったら何で人形が動いていたんですか?」
「法術だ」
「法術……?」
「ああ、法術だ」
 細かい説明をするのもめんどくさいので、とりあえずそうとだけ言っておく。
 ……つもりだったのだが。
「あの……出来れば、少しお話を聞かせて貰えませんか? お金は払いますから」
 その返答は、更に少女の興味を引く物となったらしい。
 すがるように言い募ってくる少女。
「面倒だからいい」
 だが俺はそう答えて、踵を返す。
 正直、お金は欲しいが、それに釣られるようでは駄目だ。
 あくまでも、自分の芸で稼がなければ。
「でも……」
「じゃあな」
 まだ何か言いたそうな少女を残して、歩きだす。
 と……ぐぅ〜と言う、腹の音が聞こえた。
 自分の腹から。
 思わず、お腹を押さえてしゃがみ込む。
「……お腹空いてるんですか?」
「……」
 少女の問いかけには反応しない。
 ここで振り向いたら負けだ。
 ここまで来て、妥協するつもりはない。
「この奥で露店をやってるはずですけど……何か、奢りましょうか?」
「……マジか」
 だが俺は、その言葉を聞いた瞬間、きゅぴーん! と音が出る様な速度で振り返ってしまった。
「なにか目が恐いんですけど……マジです」
 振り向いた先には、引きつったような笑顔の少女。
 食べ物につられるのも情けないが、これは仕方のないことだろう。
 なにしろ昼にこの街に来てから、何も食べていない。
 空腹は、俺の最大の敵だった。
「ええと……それで、お話はして貰えるんですよね?」
「……仕方がない」
 交換条件としては、妥当なところだろう。
 元々、門外不出な物ではない。
「では、こっちです。着いてきてください」
「わかった」
 そうして、ストールを翻して歩き出す少女。
 俺もそれに着いて歩き出した。

「着きましたよ」
 少女の言葉通り、目の前には露店があった。
 この寒い季節に、非常識だとも思うのだが。
 それでも、今の状況ではありがたい。
「何にしますか?」
 少女にそう言われてメニューを見る。
 フランクフルト、焼きそば、お好み焼き、等々。
 まさに露店らしいメニューの数々が並んでいる。
「ラーメンセット、1つ」
 敢えて、メニューに無い物を言ってみた。
「そんなこと言う人嫌いです」
 さらりと言った俺に、笑顔のまま返してくる少女。
 お互いに、目だけは笑っていなかった。
「……焼きそば1つ」
 このままおごって貰えなくなるのも困るので、普通に注文をする。
「焼きそばですね、わかりました。買ってくるので、少し待っていて下さい」
 そう言って、近くの椅子を指し示す。
 すでに空腹も辛いので、遠慮なくそこに座って待つ。
 その間に、少女は注文に向かったようだ。
 店員とのやり取りが聞こえてくる。
「えっと、焼きそばと、アイスクリームのバニラをお願いします」
「はい。焼きそばと、アイスクリームのバニラですね?」
 ……何かの聞き間違いだろうか。
 今、とても今の風景に似つかわしくない単語を聞いた気がする。
 驚いて少女の方を見るが、そこでは何事もなかったかのようにお金を払っている少女の姿があった。
 店員も何も気にした様子はなく、ヒーターから焼きそばを、クーラーボックスからアイスクリームのカップを1つずつ取り出す。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
 そして、幸せそうにそれを受け取る少女。
 そこには、何の違和感もない。
「お待たせしました」
 そう言って、俺の座っている椅子の所まで歩いてくる。
「……アイスクリーム?」
「はい、美味しいですよ」
 明らかに、今の季節に似合わない食べ物。
 しかし、現実には目の前に、確かにアイスクリームのカップが置かれていた。
「少し食べますか?」
 笑顔で聞いてくる少女。
「いや、いい」
 それはさすがに遠慮しておく。
 確かに、夏場なら美味しいだろう。
 ただ、この雪で囲まれた風景の中で食べたいとは、どうしても思わえなかった。
「美味しいのに」
 少女はそう言いながらも、気にした様子もなくアイスクリームのカップを開ける。
 中からは、少し黄色がかかった雪が顔を出す。
「おいしい」
「そらよかったな」
 言葉どおり美味しそうに食べる少女。
 見てるこっちは、頭が痛くなりそうだった。
 気にしないことにして、俺も焼きそばを食べる。
「……」
 焼きそばは温かいはずなのだが、身体の芯まで冷えてくる気がした。

「ところで、さっきの話ですけど」
「ん?」
 俺がほぼ食べ終わったところで、少女がそう切り出した。
 ちなみに、少女の方はまだ半分も減っていない。
 俺が早いと言うよりは、少女が遅いのだろう。
「法術、でしたか? どう言った力なんですか?」
「ああ……」
 そういえば、おごってもらう時にそんなことを言ったような気もする。
 おごってもらった後なので、素直に答えることにした。
 とは言え、俺が言えることもそこまで多くはないのだが。
「離れている物を動かせる力、それだけだ」
「それだけ、ですか?」
 少し、声に残念そうな色が混じる。
「昔はもっと色々なことも出来たらしいがな。俺に使えるのは物を動かす力だけだ」
 ただ、それは事実なので、そうとしか言いようがなかった。
「……昔?」
「ああ。これはずっと俺の家系に伝わっている力らしい」
「そうなんですか……」
 さっきよりも更に沈んだ声。
 俺が何か失望させるようなことを言ったのだろうか?
 だとしても、素直に答えているだけなのでどうしようもない。
「ちなみに、旅芸人としての生活と、この人形も先代から継いだ物だ」
 少しでも話の矛先を変えようと、人形をテーブルの上に置く。
 改めて見てみると、やはりかなりの年季が入って、ぼろぼろになっていた。
「ずっと、なんですか?」
「昔のことはよく知らないが……少なくとも、俺の母はそうだった」
 もっとも、今の俺よりはまともな生活をしていたが。
 そのことは、胸の中でだけ付け加える。
 それを口にしたところで、自分が惨めになるだけだろう。
「なにか、理由があるんですか?」
 結局の所この少女は、この手の話が好きなのだろうか。
 質問してくる声に、少しだけ元気が戻ってくる。
 それだけの事で、何となく安心する自分が居た。
 なんとなくさっきまでは、そのまま消えてしまいそうな雰囲気があったから。
「人を、探してるんだ」
 気をよくして、喋り続ける。
「何代にも渡って、ですか?」
「ああ、これも言い伝えでな」
『この空の向こうには、翼を持った少女がいる。それは、ずっと昔から。そして、今、この時も。同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている』
 幼い頃に母から教わった、ちっぽけな言葉。
 古ぼけた人形と共に受け継いだ、旅の道連れ。
「なんか、かっこいいですよね」
「そうか?」
 現実は、その日の生活にすら困っているだけのただの旅人だ。
 だか、それはこの少女にとっては大したことではないらしい。
 むしろそれすらも、かっこいいと言える要素なのだろう。
 憧れとは、そういう物だ。
「そんなこと言う人嫌いです」
 さっきと同じ台詞。
 ただ、今度は笑顔だった。

 話はそれで終わった。
 俺の方は焼きそばも食べ終わり、少女がアイスクリームを食べ終わるのを待っている。
 やがて、たっぷりと時間を掛けて、少女の方も食べ終わった。
 それを見てから、2人とも立ち上がる。
「それでは。話をしていただいて、ありがとうございました」
「いや、大したことじゃない」
 話したことは、ただの身の上話。
 それも、誇れるような内容ではない。
 それでも、少女にはなんらかの意味が合ったようだった。
「いえ……それでは、私はそろそろ帰ります」
「ああ、じゃあな」
 歩き出す少女に背を向け、俺も歩き出す。
 と。
「ちょっと待った!」
 忘れていたことに気が付いて、声をあげる。
 1つだけ、聞かなければならないことがあった。
「はい?」
 少しだけ驚いて振り向く少女。
 その目を見ながら、訊ねる。
「……商店街の方向だけ教えてくれないか?」
「えーと……あっちですけど」
 少し戸惑いながらも、答えてくれた少女。
「あの道を向こうに真っ直ぐ行けば、商店街のすぐ近くまで出るはずです」
「そうか」
 身振り手振りで示しながら、簡単な説明をしてくれる。
 これでやっと、道に迷わずに済みそうだ。
「今度こそ、それじゃ」
「はい……では」
 再び少女に背を向け、歩き出す。
 空はいつの間にか雲が薄れて、少しずつ星の輝きが見えだしていた。


(法術……不思議な力でしたね)
(特別な人が起こす、特別な奇跡)
(でも……私は違うから……)


3.兆し ――sign

 公園からは特に道に迷うこともなく、無事に商店街にたどり着いた。
 ただしその頃には、すでに辺りは闇に包まれていた。
「さすがにもう遅いか」
 人通りはすでに途絶え、家路を急ぐ人達がたまに見える程度。
 店はすでにコンビニぐらいしか開いていなく、閑散としている。
 街灯と足元の雪に照らされた世界。
 中途半端に眩しくて、それが余計に寂しく映った。
「さて、どうしたものか」
 今日はこれ以上、ここに居ても意味はないだろう。
 となると、どこかで宿を確保しなければならない。
 今が夏であるのなら、野宿でも何とかなるのだが。
 明らかに冷え込むこの季節のこの街では、野宿したら凍死しそうだった。
「何処かに泊まる金もないんだがな」
 そもそも、大道芸人などと言う物は、稼ぎのいい仕事でもない。
 この街に電車で来るために、有り金のほぼ全てを使い切っていた。
 いつもなら街に着いてすぐに芸で稼ぐのだが、今回は着くなり道に迷った。
 つまり、それから手持ちの金は増えていない。
「せめて、人がいればな」
 人さえいれば、誰かが気前よく泊めてくれることもあった。
 しかし気が付けば、僅かながら居た人もすでに見えない。
「野宿するしかないか……」
 仕方なく、寝床を求めて歩きだす。
 室内に入れれば、多少はましなはずだった。

 当てもなく、さまよい歩く。
 そうそう、眠れそうな場所が見つかるわけでもない。
 それでもただ、歩く。
 やがて、大きな建物が見えてきた。
 窓から明かりが漏れることもなく、今は無人のようだ。
「病院……いや、学校、か」
 校門は閉まっているが、乗り越えることは難しくない。
 中に入れるかはわからないが、入れれば多少はましだろう。
 入ってしまえば、夜の内は誰かが訪れることもない。
 朝が遅くなるとまずいかも知れないが、今の時期、学校は冬休みのはずだ。
 見つかる可能性はそこまで高くない。
 なんにしても、中に入れさえすれば、だが
「確認だけはするか」
 当たり前のことではあるが、こういう建物の戸締まりは、大抵しっかりしている。
 駄目元で玄関と、1階の窓を片っ端から確認する。。
 すると、職員用らしい小さな玄関に鍵がかかっていなかった。
「不用心な……」
 呟くが、それに助けられているのだからあまり強くは言えない。
 それに、まだ人が残っている可能性もある、と言うだけのことだ。
 見つからないように、慎重に動く必要があるだろう。
 靴は履いたまま、あくまでこっそりと上がり込んだ。

 中は思っていたよりも広く、まだかなり綺麗だった。
 この校舎が建ってからは、あまり年数が経っていないらしい。
 無機質な静寂。
 どこか馴染めない空気。
「……とりあえず、眠れそうな場所を探すか」
 まだ人が残っているのであれば、見つかりにくそうな場所を捜す必要がある。
 とりあえずは、片っ端から見ていくしかないだろう。
 人が居るかどうかだけには注意しながら、歩きだす。
 こつ……こつ……
「……」
 静かな校内に、自分が歩く音が響く。
 これぐらいはしょうがないだろう。
 逆に言えば、向こうが動くときにも、音が鳴ってくれるのだから。
 注意深く、慎重に歩く。
 出来るだけ、音を鳴らさないように。
 出来るだけ、周りの気配を感じれるように。
 そうして、一歩ずつ歩いていった先に。
 それは、突然現れた。

 それは、奇妙な光景だった。
 夜の学校。
 静かな廊下。
 その真ん中に、なんの前触れもなく、小さな女の子が立っていた。
「な……」
 奇妙な光景はまだ続く。
 おそらくは、小学校に入ったばかりぐらいであろう年齢。
 白いワンピースが、無いはずの風に揺れている。
 頭に付けた、大きなウサギの耳も同様に。
「……ウサギ?」
 自分の頭と同じぐらいの長さの、ウサギの耳。
 光景との違和感はあるが、少女自体には似合っていないわけではない。
 むしろ、似合いすぎているぐらいだ。
 それを含めて1つの衣装、なのだろうか。
「お前は……?」
 意識せず口から漏れた、問いかけの言葉。
 それを言い終わる前に、目の前の気配が揺らぐ。
 それこそ、映像のように。
 その瞬間、脳を強烈な衝撃が襲う。
「なっ……がっ」
 抵抗も出来ずに吹き飛ばされる。
 と同時に脳裏に浮かんだ、場違いな麦畑の風景。
 黄金色に包まれて、小さな子供達が駈け回っている。
「なん……だ?」
 意識を失っていたのは一瞬らしい。
 目を開ければ、さっきまでと変わらない学校の中。
 だとすると、さっきのは何だ?
 俺は見た覚えのない、遠い日の風景。
「ぐぅ……ああぁ……」
 ほとんど考える暇もなく2撃目、3撃目が来る。
 何をされているのかすらわからない。
 ただ、直接脳を揺さぶられるような感覚。
 そしてその度に脳裏に浮かぶ、同じ麦畑の風景。
 駈け回る2人の子供。
 片方は、目の前のうさ耳少女だろうか。
 麦畑の上に、耳だけが見える。
 そして、その少女を追いかける、同い年ぐらいの少年。
 何処までも平和な、懐かしい景色。
「違……う……」
 呻き声が漏れる。
 何が言いたいのかは、自分でもわからない。
 ただ、それは間違ってはいない……そんな確信。
「違う……それは、俺じゃない……」
 たった、それだけ。
 それだけのことをただ、強く想う。
 そんな俺を容赦なく襲う、最後の一撃。
「が……は……」
 意識が闇に沈んでいく。
 麦畑が遠ざかっていく。
 痛みはすでに感じていない。
 後は微かな意識を手放せば、すぐに楽になれるのだろう。
 それでも、最後まで。
(違う……違うんだ……)
 それは自分でもわからない、ただの想い。
 ただ、それは真実で。
 それに気が付かないのなら……それはきっと、悲しすぎるから。
(……ごめんなさい)
 ふと、意識に混ざる、少女の声。
 それきり、完全な闇へと飲み込まれた。


(ごめんなさい……あなたは、似ていたから……)
(それに、受け取ることが出来たから……)
(だから、せめて……)


「……逃がした……っ、誰?」
「手当……運ばないと………」


4.少女の檻 ――prisoner girls

「わー……その人、どうしたの?」
「……落ちてた」
「とりあえず、部屋まで運びますねー」
「……お願い」

「う……ん……」
 ゆっくりと目を開ける。
 目の前には、見慣れない天井が広がっていた。
 無駄に豪華な、シャンデリアっぽい照明。
「ここは何処だ?」
 体を起こして、辺りを見回す、と。
 特に痛む部分もなく、体調も正常だった。
 ただ、どこか現実感に乏しい感覚。
「……起きた」
「……っ」
 小さな声が聞こえて、慌ててそっちの方を見る。
 そこには、高校生ぐらいの少女が1人。
 見ていてくれた……の、だろうか?
 その割には、心配していたとは思えない無表情。
 切れ長の眼が、どうも意識に引っかかる。
 見覚えはあるような気はするが、名前が出てこない。
「誰だ? それに、ここは何処だ?」
「……」
 問いかけにも、無言。
 仕方なく、自分で思い出そうとしてみる。
 靄がかかった様な思考。
 慣れない場所のせいか、今も夢の中のように思える。
 何か、奇妙な風景の中に居たような……。
「あっ」
 さほど考えに耽るまでもなく、いくつかのイメージが脳裏を過ぎった。
 暗い学校。
 うさ耳の少女。
 麦畑と、そこで駈け回る子供達。
「……うさ耳?」
 疑問に思うが、そのイメージはしっかりと脳裏に焼き付いていた。
 にわかには信じられない光景。
 それでも、夢と片付けるにはあまりにリアルで。
「見えたの?」
「うわっ」
 漏れただけの呟きに、思わぬ方向から反応が返ってきた。
 さっきまで無言だった少女が、こっちをじっと見つめている。
 そのイメージが、昨日の少女と重なった。
 こっちを見つめる、その切れ長の眼が。
「……見えたの?」
「あ、ああ……確かに、見たが」
 気圧されながら、素直に答える。
 この少女はなにかを知っている、そう思えたから。
「他の人には、見えないと思ってた」
 そう呟く声は、驚きが隠せていない。
 見えること、それだけで驚かれる存在。
「あれは、なんなんだ?」
 当然の問い。
 あれが夢ではなくて、現実だと言うのならば。
「……魔物」
 答えもまた、非現実的な言葉。
 だからこそ、逆に信じる事が出来た。
 あれは現実で、確かに存在する物なのだと。
 あまりに、魔物という言葉のイメージとはかけ離れた存在だとしても。
「私は、魔物を討つ者だから」
 そう続けた少女の眼は、間違いなく真剣で。
 その雰囲気に、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

「舞ーっ、持ってきましたよーっ」
 静寂をかき消すように、ドアが開いた。
 その向こうには、目の前の少女と同じぐらいの歳の少女。
「あ、目が覚めたんですね。お体の方は大丈夫ですか?」
 部屋に入ってくると、体を起こしている俺を見て、声を掛けてきた。
「ああ、体は何ともないが……」
「そうですか、それは良かったです。落ちてたと言われたので、心配したんですよーっ」
 その勢いに圧されて、上手く言葉が出てこない。
 さっきまでの雰囲気が雰囲気だっただけに、尚更。
 スイッチがなかなか切り替わらない。
「ええと……とりあえず、誰だ?」
 何とか、それだけを口にする。
「失礼しました。佐裕理は、倉田佐裕理です。佐裕理でいいですよ」
「あ、ああ……俺は国崎往人だ」
「往人さん、ですね。わかりました」
 気圧されたまま、軽く自己紹介を済ませる。
 その間、もう1人の少女は黙ったままだった。
「……?」
 俺が視線で促してみても、口を開く様子はない。
「あれ? 舞の名前、まだ聞いてませんでしたか?」
「ああ」
「ほら、舞も」
 少女が黙っているのは、いつものことなんだろう。
 表情だけでそれに気付いたらしい佐裕理が、舞と呼んだ少女を促す。
「……川澄舞」
 相変わらず小さな声で、呟くように名乗る少女。
 それでも、名前は聞き取れた。
「佐裕理と、舞か」
 なんとなく呼んでみる。
 ここに至ってやっと、現実感が出てきた気がした。
 何となく落ち着いたのと同時に、腹がぐぅ〜と鳴る。
「あ、お腹空いてますよね」
 それに気が付いた佐裕理が、声を掛けてきた。
「私達はこれから朝ご飯のつもりで、往人さんの分も用意していたのですが……一緒に食べませんか?」
「くれ」
 思わず即答してしまう。
 相変わらず、食べ物には弱かった。
「往人さん……目つきが恐いです……」
 ふと見ると、佐裕理が乾いた笑いを浮かべていた。
 昨日にも、こんな事があったような気がする。
 ……気にしていても仕方がないが。
「では、冷めない内に食べましょう。体調が悪いといけないと思って、お粥を作ったんです」
 そういって、ドアの外から手押し車を押してくる。
 その上には、コンロに乗った鍋に、茶碗が3つ。
 全員のメニューが、お粥のようだった。
「わざわざ、俺に合わせたのか?」
「多く作る方が楽ですから」
 そう言って笑いながら、お粥を取り分ける佐裕理。
 俺に気を使わせないための言葉、だろう。
 本当に、ありがたいことだった。
「それでは、いただきます」
『いただきます』
 手を合わせての合唱。
 こんな経験も、いつ以来だろうか。
 温かい気持ちになりながら、まだ温かいお粥を口に運ぶ。
「……美味いな」
 思わず、そう口にした。
 お世辞ではなく、本当にそう思う。
「本当ですか? ありがとうございます。これ、佐裕理が作ったんですよ」
 その言葉を聞いて、佐裕理にも満面の笑みが浮かぶ。
 その笑顔と共に食べると、もっと美味しいと思えた。

「ふぅ……ごちそうさん」
「おそまつさまです」
 結局、3人がかりで鍋の中身を全部片付けた。
 少し多く思えた量も、実際に食べてしまえば気にならない。
 それだけ美味しいお粥だった。
「これだけ美味かった食事は久しぶりだな」
「そうですか? ありがとうございます」
 実際には、しばらくまともな食事をとっていない、と言うこともあるが。
 それを差し引いても、十分に美味かった。
 味もさることながら、この雰囲気がいい。
 佐裕理の笑顔は当然ながら、舞も食事の時は子供のようで。
 勢いよく食べる姿は、逆に微笑ましかった。
 本当に、久しぶりの感覚。
「しかし悪いな。色々と世話になって」
「いえ。私も楽しかったですよーっ」
「ならいいんだが」
 しかし、行き倒れを拾ってもらって何もお礼が出来ない、と言うのも気が引ける。
 俺に出来ることとなると、1つしかないが。
「お礼として、芸を見せてやろう」
「芸、ですか?」
 興味津々、と言った様子でこちらを見てくる2人。
 思ったより良い反応で、こっちとしてもやりがいがあった。
「ああ、仕事だからいつもは金を取るんだがな。今回はサービスだ」
 そう言いながら、ズボンのポケットから人形を取り出す。
「さぁ、楽しい人形劇の始まりだ」
 いつものように、人形を床に置いて、念を送る。
 すると、1人で立ち上がって歩きだす人形。
 ぴっ、とことことこ……
「はぇー……」
「……」
 食い入るように見つめている2人。
 やはり、真剣に見て貰えると機嫌がいい。
 今回は、走らせてみることにする。
 てってってっ……
「はー……」
「……」
 そしてフィニッシュ。
「とぅっ」
 思いっきりジャンプさせる。
 くるくるくるくる……バシッ
 着地もしっかりと決まった。
 我ながら完璧な出来だ。
「はぇー……すごいです……」
「……」
 ぱちぱちと、佐裕理が拍手をしてくれる。
 舞は、なにやら真剣な様子で人形を見つめていた。
「……どうやって動かしたの?」
 どうやら、人形を動かしていた仕掛けを探っていたらしい。
 俺の場合は、見ていても無駄なのだが。
「これにはな、タネも仕掛けもないんだ」
「はぇー……」
「……」
 そう言ってやると、素直に感心する佐裕理。
 ただ、舞の方は信じてくれずに、じっと俺を睨んでくる。
「……嘘」
 しかも、そう断定してきた。
 それには思わず苦笑しつつ、ネタばらしをしてみる。
「そりゃ、厳密に言えば何もないわけではないが……不思議な力でな。法術って言うんだが」
『法術?』
 2人してオウム返しに聞き返してくる。
 当然、聞き覚えのない言葉だから、だろう。
「俺の家系に伝わる力で、やれる事は離れている物を動かすぐらいだがな。昔はもっと色々出来たらしいんだが」
「それだけでも、充分凄いですよ」
 簡単な、説明にもなってない説明。
 それでも、いちいち頷いてくれる佐裕理。
「……家系?」
 舞の方はまだ気になることがあるらしく、食いついてくる。
 何が気になっているのかはわからないけれど。
「俺も聞いた話でしかないけどな。俺の家系はずっと、この力を継いできた。かなり長いらしいぞ」
「……そう」
 そこまで聞いて、引き下がる舞。
 その表情は、まだ納得はしていないようだが。
 俺が知っていることもそうないので、どうしようもなかった。

「それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
 あまり長居をしすぎるわけにもいかないので、そろそろ出ることにする。
「それでは、玄関まで送りますねーっ」
 そう言って、先頭を歩きだす佐裕理。
 その後について、廊下に出る。
 廊下の角までが、とても遠かった。
「……って、広い家だったんだな」
「はい、舞とかくれんぼしたこともありますよ」
 そう言って笑う佐裕理。
 だが、俺としては笑い事じゃなかった。
 そこらに飾られた装飾品も、明らかに高級品ばかりだ。
 迂闊に触ろう物なら、とんでもないことになる。
 なにせ俺は金がないから、弁償は出来ない。
「ちゃんと着いてきてくださいねーっ」
 硬直している間に先に進んでいた佐裕理が、振り返って言ってくる。
「あ、ああ」
 何とか我に返って、小さくなりながら着いていく。
 と言うか、案内が無いと確実に迷子になっただろう。
 それだけの広さがある。
 実際には歩いている時間はそう長くないはずだが、まさに無限の時間のように感じていた。
 佐裕理はそのまま玄関を出て、門までの庭を歩いていく。
「……」
 俺はもはや、放心状態だった。
「それではーっ」
「……」
 対照的な2人に見送られ、俺はその場所を後にする。
 外の寒さは、確かに昨日と同じ街だった。


(近かった……けど、違う)
(私とも……あの男の子とも)
「ん? どうかした? 舞」
「……なんでもない」


5.約束 ――promise to air

 道がわからない事に気が付いたのは、5分ほど歩いてからだった。
「……ここはどこだ?」
 そもそもあの家には、意識がない状態で引きずられている。
 そんな状態で、道を覚えているはずがない。
 最後に道を聞かなければと思っていたのだが、雰囲気に圧倒されて忘れていた。
「まぁ、たまには散歩も悪くないか」
 この街に着いてから、本当に不思議な事ばかりが起きている。
 ならば、適当に歩いていても、また何かが起こるんだろう。
 それに、時間もまだ朝早い。
 無事に商店街に出れたとしても、人通りは少なそうだった。

 相変わらず白い世界をただ、歩く。
 見上げた空は、蒼く透き通って。
 今居る場所も、忘れそうなぐらいに。
 ふと、樹々で空が切り取られる。
「……で、ここはどこだ?」
 視線を下に戻すとそこは、森の前だった。
 この上には、昨日の丘があるのだろうか。
 ただ、この場所からは入れないように見える。
 これ以上進めないのなら、ここいても仕方がない。
 それに時間も、そろそろいい具合に潰れただろう。
「引き返すか……ん?」
 そう思い振り向くと、そこに1人の少女が立っていた。
 赤いカチューシャに、ダッフルコート。
 ミトンの手袋が、茶色の紙袋を大事そうに抱えている。
 見るからに活発そうな少女。
 そしてその背中には、小さな羽が揺れていた。
「……なっ」
 翼を持った少女。
 それが、俺のずっと探してきたものだった。
 ただ、それは空の向こう側にいるはずで。
 こんな街角で、偶然出会う様なものではない、はずだ。
 そうやって考え込んだ一瞬の間に、少女は森の中へと入っていった。
「っと、待てっ!」
 とっさに叫ぶも、少女が立ち止まることはない。
 声が聞こえてすらいないかのように、そのまま森の中を突き進む。
 見失うわけにはいかないので、俺も慌てて追いかける。
 一見すると入れそうにないぐらい狭い森の入り口だったが、人1人ぐらいなら辛うじて通り抜けることが出来た。
 足場は樹の根や苔などで不安定なのだが、目の前の少女にはまったく走りにくい様子がない。
 何度か見失いそうになったが、かろうじてついていくことが出来た。
 少女の足自体が、あまり速くはなかったおかげだろう。
 やがて、樹々が急に途切れた。
 少女もそこで立ち止まる。
 遅れて辿り着いた、俺も。
「ここは……」
 森の中にぽっかりと空いた空間。
 低い草が雪に覆われ、樹々の隙間を抜けた光に照らされている。
 中心には、俺でも抱えきれないほどの大きな切り株。
 そこに座り、ただ、うつむいている少女。
 その背中には、すでに羽は見えない。
 ただの見間違いだったのか、それとも……。
「お前は……」
 とにかく、声をかけようとする。
 が、かけるべき言葉が見つからない。
 明らかに、普通の少女には見えなかったから。
 だが、それだけで充分だったらしい。
 少女は驚いたように顔を上げ、俺の方を見返して、聞いてくる。
「ボクのことが見えるの?」
「ああ……」
 また、見えないはずの少女。
 昨日の今日で、2人目。
 今度はもう、不思議だとは思えなかった。
 不思議と馴染んでしまっている感覚。
 その裏で、ほんのちょっとの違和感。
「……」
「……あ、たい焼き食べる? ここのたい焼き、おいしいんだよ」
 上手く言葉が出てこなくて困っていると、少女の方から話しかけてきた。
「……くれ」
 貰える物はとりあえず貰っておく事にする。
 そう答えると少女は、抱えていた紙袋から2尾、たい焼きを取り出した。
 その内の1つを俺に、1つは自分に。
 俺が受け取ったのを見ると、頭からかぶりつく。
「やっぱり、たい焼きは焼きたてが一番だよね。ここに来るまでに、少し時間が経っちゃったけど」
「そうだな」
 適当に頷きながら、俺もたい焼きにかぶりつく。
 どこか懐かしい味がして、確かに美味しかった。

 たい焼きを食べ終わる頃には、気持ちもかなり落ち着いてきていた。
 甘い物は、こういう時にはありがたい。
 落ち着きさえすれば、聞かなければならないこともわかる。
 たい焼きの入っていた袋を潰している少女に、声を掛けた。
「お前には、翼があるか?」
「翼?」
 少女はただ、首を傾げるだけで。
 そのままたっぷりと硬直してから、続ける。
「羽が欲しいって思ったことはあるよ。でも……ボクには、無いから」
「そうか」
 寂しそうに俯く少女。
 その背中にまた、翼の幻影が見えた気がした。
 でも、それも一瞬だけ。
 見えない翼では、羽ばたくことも出来ずに。
「空は……遠いな」
「うん……」
 それきりまた、黙り込む。
 樹々に切り取られた空を見上げながら。
 遠い世界に、想いを馳せながら。

 次の静寂を破ったのは、少女の方だった。
「そういえば、どうしてこの街に来たの?」
「捜し物だ」
 問いかけに、素直に答える。
 この少女相手に隠し事をしても、意味は無さそうだった。
 そもそも、隠す理由もないのだが。
「捜し物?」
「ああ」
『この空の向こうには、翼を持った少女がいる。それは、ずっと昔から。そして、今、この時も。同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている』
 すでに、歌うように零れる言葉達。
 ずっと目指して、探し続けている場所。
 遙か遠くに導くのはその言葉と、古ぼけた人形。
 ずっと受け継いできた伝承。
「……って、わかったか?」
「あんまり……」
 気が付けば、1人で喋り続けていたらしい。
 少女の方を見ると、困ったような笑顔が張り付いていた。
「まぁ、俺は翼を持った少女を捜している、それだけだ」
 結局の所は、たった1つの捜し物。
「うん……見つかると、いいね」
「そうだな」
 それは、本当にそう思う。
 それだけが、俺の生活なのだから。
「えっと、それで……お人形、持ってるんだよね。見せてくれないかな?」
「いいぞ」
 少女にねだられ、相棒である人形を渡す。
 大事そうに受け取り、抱きしめる。
「この子は、その子の居場所を知ってるのかな?」
「どうだろうな」
 ずっと受け継いできたと言われた人形。
 その事に何の意味があるのかはまだ、わからない。
 ただ、俺にとっては母から貰った物だから。
 数少ない、俺の道しるべ。
 いつか、その場所まで導いてくれるのだろうか?
「……え?」
「何だ?」
 突然、人形がほのかに光りだした。
 温かく包み込むような光。
 そして、耳鳴りのような、それでいて不快ではない、高い音。
「そう、なんだ……うん……」
 その中で、納得したように呟く少女。
 俺には、他の声は何も聞こえなかったけれど。
「うん……ありがとう」
 少女がそう言って頷くと同時に、光と音が止まる。
 さっきまでの静かな空間が戻ってくる。
「どうしたんだ?」
 誰かと会話をしているようではあったが。
 ふと、少女が俺の方を向いて微笑んだ。
「えっと……このお人形、大切にね」
「ああ……」
 少女の口調が、少し変わっていた。
 泣くのを我慢しているような声。
 その雰囲気に押されてただ、頷く。
「それから……捜し物、頑張ってね。絶対に、見つけられるから」
「ああ……」
 少女の頬には、堪えきれずに、一筋の雫が流れていた。
 声も少しずつ震えてくる。
「約束、だよ……それじゃ、ボクは行くから……」
「ああ……」
 それだけを伝えて、泣きながら微笑む少女。
 そして、もう一度放たれる光。
 それが途絶えたとき、少女の姿は消えていた。
 残されたのは、少女が抱いていた人形。
 それと、淡いピンク色の羽が1枚。
「約束、か」
 結局、今の現象が何だったのかはわからない。
 少女の願いも、消えた先も、何も。
 ただ、もしも今のが夢だったとしても。
 俺には、旅を続けなければならない理由がまた1つ、増えただけだ。
 俺がやるべき事は何も変わらない。
「……お前も、頑張れよ」
 人形だけを回収して、踵を返す。
 残された羽には、きっとその意味があるから。
 後はまた、それぞれの道を歩くだけ。
 目指す場所は、一緒に見上げた空の向こう側。
 次は、その場所で出逢えるように。


(終わらないことの悲しみは、ボクも良く知ってるから)
(そんなのは絶対に、悲しすぎるから……)


6.雪の少女 ――snow doll

 森から出るために歩く。
 行きは夢中で追いかけていたので、どんな道を通ってきたかは覚えていない。
 なので、自分の感覚に任せて、ひたすらに。
 さすがに道に迷っても、完全に出られなくなるほどの広さはないはずだ。
 相変わらずの足場の悪さだけは、どうしようもないとしても。
 実際に、しばらく歩けば遊歩道らしき場所に出た。
 昨日と同じ道だろうか。
 風景からは判断できなかったが、同じだとすれば道はわかる。
 つくづく縁のある道だと思いながら、ひたすら歩く。
 やがて、見覚えのある遊歩道の終わりが見えてきた。
「正解だったようだな」
 ここまで来れば、商店街までは後一息だった。

 後は迷うこともなく、無事に商店街に着いた。
「やっとだな……」
 この街に着いてから、初めて行き交う人々を見た気がする。
 この辺りでは唯一の商店街らしく、人通りはかなり多かった。
 今まで、どこにこれだけの人が居たんだろうと思えるほどに。
「さぁ、始めるか」
 時間はまだ、昼過ぎ。
 これからの時間帯なら、充分に稼げることが期待できる、
 俺は気合いを入れて、人形劇を開始した。

「……寒い」
 ちなみに、気温のことではない。
 いや、気温もかなり寒いのだが。
 それ以上に、俺の懐が寒かった。
 さっきから立ち止まる人はいるのだが、少し見ただけで興味を無くしたように去っていってしまう。
(この街の人は、芸を見る余裕がないのか?)
 そんなことを思いながらも、ひたすらに芸を続ける。
 もう、時間がない。
 すでに日は傾いて、街は赤く染まりだしていた。
「それじゃあ、次は学校でね。ばいばい」
「うん、ばいばい」
 そんな会話も聞こえてくる。
 全ての人達がまた、家に帰り出す時間。
 当然、帰ってしまえば人は居なくなる。
 人が居る内にせめて、宿代だけでも稼がないと、今日こそ野宿になってしまう。
(学校……は、もう無理か)
 昨日と同じ手段も脳裏を過ぎったか、少なくとも同じ場所には行きたくなかった。
 夜の学校ではまた、舞が魔物と戦っているのだろうから。
 それはきっと、舞の居場所だったから。
 ふと、目の前で人が止まる気配。
 ゆっくりと、顔を上げる。
「……わ」
 そこには、長い髪の少女が立っていた。
 その視線はじっと、俺が動かしている人形に注がれている。
 こころなしか、眠そうな目だった。
「お人形さん……」
 声まで間延びしている。
 どうも、やる気を削がれる声だった。
 それでも、貴重な客である。
 それも、初めてゆっくりと見ていってくれている客だ。
 精一杯の気力を振り絞って、劇を続ける。
 とことことこ……
「お人形さん、ふぁいと、だよっ」
「……」
 言葉の内容とは裏腹に、やっぱり眠くなる声。
 しかし、ここで寝るわけにはいかない。
 とことことこ……
「ふぁ……私、少し眠い……」
「……」
 と思っていたら、少女の方が先に眠くなってきたようだった。
 俺の人形劇には、催眠効果でもあるのだろうか?
 とことことこ……
「……くーっ」
 と言うか、寝ていた。
「……寝るな」
 たっ……ぽこっ
 そのまま人形に跳び蹴りをさせて、起こす。
「……あれ? 寝てた?」
「思いっきりな」
 俺は楽しい人形劇を目指していたはずだ。
 それなのに、それを見ながら寝るのは失礼だろう。
 しかし、少女はそんなことを気にはしていないようだった。
「でも、すごかったね。まるで生きているみたいだったよ」
「当然だ、本当に生きているからな」
 むかついたので、冗談で返してみる。
「……本当?」
 少女は、本気で信じているようだった。
 高校生ぐらいの年齢に見えるが、ひょっとしてもっと下なのだろうか?
 それとも、頭の回転が遅れているのだろうか?
「……もしかして、うそ?」
「当たり前だ」
 しばらく沈黙していると、やっと気が付いたらしい。
 さっきからどうも、応答がワンテンポ遅れている。
 間違いなく、変な少女だった。
「うー……」
 どうにも納得はできていないようだが、気にしないことにする。
 これ以上、この少女に関わるのは得策ではない。
 そう判断して、人形を回収して立ち上がる。
 そして、踵を返して……ぐぅ〜と、腹の音が聞こえた。
 思わずその場にしゃがみ込む。
「……腹減った」
 どうも、昨日も同じ展開があったような気がする。
 だが、空腹はどうしようもない。
 考えてみれば、今日は朝飯を貰った後、たい焼きしか口にしていなかった。
 今の時間を考えれば、腹が減るのも仕方がない。
 問題は、食べ物を買う金にすら困っていることだが。
「お腹空いたの?」
 少女もさっきの音に気が付いていたらしく、声を掛けてくる。
 しかし、この少女にこれ以上関わる気はない。
 聞こえなかった振りをして、歩きだそうとして、
「私の家に来る? お母さんが、喜んでなにか作ってくれると思うけど」
 続く言葉を聞いて、きゅぴーん! と、音が出そうな速度で振り返る。
 ……もう、プライドも何もなかった。
「わ、目つきが恐いよ……」
 さすがに情けなくもなるが、状況が状況だけに仕方がない。
 しかし、本当に初対面の俺を連れていって、飯にありつけるのか……。
「じゃあ、行くよー」
「……って、おいっ」
 どうするべきか考えてる内に、すでに少女が俺の手を取って引きずっていた。
 マイペースな上に、妙なところでかなり強引だった。
「あれ? 行かないの?」
「その前に、本当に大丈夫なんだろうな?」
 これで、家に引きずられたあげくに追い返されてはたまらない。
 その辺りはしっかりと確認しておかなければ。
「大丈夫だよ。お母さんはお料理好きだから」
「それは理由になってないぞ……」
 確認しようとはしてみる物の、もう、何を言っても無駄のような気がした。
 それでも、出来るだけは足掻く。
「それに、母親は良くても、他の家族は……」
「いないよ」
 今度の答えは、更に予想外だった。
 と同時に、どこかで納得もする。
 1人残されたこの少女は、それだけ母親に愛されて育ってきたんだろう、と。
 それは、俺にはほとんどわからない感覚だったけど。
「そうか……悪かったな」
「いいよ。それに、お母さんは大好きだから」
 そしてまた、この少女も母親を愛している。
 それだけは、よくわかって。
「……仕方ない、行くか」
 まだ、心配なことは幾つもある。
 それでも、その笑顔を見てしまえば、逆らう気にはなれなかった。
 ならば、腹をくくって信じるしかない。
「うんっ」
 それだけの返事でも、何が嬉しいのか、満面の笑みを見せてくれる。
 それだけの事が嬉しかった。


7.彼女たちの見解 ――their opinion

 少女に案内されて、道を歩く。
 すでに日は沈み、辺りを照らすのは街灯だけ。
 照らされて、光を反射する雪が眩しかった。
 そんな中、跳ねるように雪を踏みしめる少女。
「……転ぶぞ」
「慣れてるから大丈夫だよ〜」
 その言葉どおり、軽快に進む。
 さすがはこの街の住民、だろう。
 しかし、だとすればこれは、すでに慣れた景色のはず。
 何がそんなに嬉しいのだろうか?
「あ、着いたよ〜」
 疑問に思っている内に、少女が立ち止まる。
 目の前にあったのは、特に変わったことはない、普通の一軒家だった。
 ただ、2人で暮らすには少し広い気はする。
 それでも、それはそれだけで。
「水瀬、か」
 表札から読みとった、少女の苗字。
 今更になってやっと、名前を聞いていなかったことに気付く。
 そして、自分が名乗っていないことにも。
「うん、水瀬名雪だよ」
「俺は……国崎往人だ」
 少女が名乗る。
 俺も、素直に名乗る。
 すでに、不審な気持ちも消えていた。
 これからお世話になるのだから、それぐらいはしっかりしておこう。
 考えてみればそれは、まだ決まった事では無かったのだが。
 そんなことはすでに、すっかり忘れていた。
「ただいまー」
 帰宅の挨拶をしながら、玄関をくぐる名雪。
 俺もそれに続いて、家の中に入った。
「お帰りなさい、名雪」
 中に入ると、名雪の母親であろう女性が、柔らかい笑顔で出迎えてくれた。
 そして、後ろにいる俺を見つけて、そのままの笑顔で呟く。
「大きなおでん種ね……」
「って、誰がだっ」
「冗談よ」
 思わず叫んだ俺を、笑顔のままでサラリと流す。
 しかし、今のは本気で恐かった。
 冗談を言うような笑顔ではなかっただけに、尚更。
 と言うか、本当に冗談なのだろうか?
「それで、どなたでしょう?」
 悩んでいる俺に、今度は普通の質問が来た。
 表情は相変わらずの笑顔。
 それを見て、少しだけ落ち着く。
 とまどいは、完全には消えなかったけれど。
「国崎往人……旅芸人、と言ったところだ」
「お腹が空いてたみたいだったから、連れてきたよ」
 困ったような俺の答えを、名雪が補足する。
 こういう所はしっかりしていて、少しだけ安心した。
「国崎、往人……さん?」
「……はい?」
 そう呟いた名雪の母親は、何故か怪訝そうな顔になっていた。
 俺も少し不安そうに答える。
 ただ、そうやって考え込んだのも一瞬のこと。
「……いえ、何でもないです」
 次の瞬間には、さっきまでと同じ笑顔に戻っていた。
「私は名雪の母親で、水瀬秋子です。よろしくお願いしますね」
 そして、何事もなかったかのように自己紹介をされる。
 名雪とは別の意味で、謎が多い人だった。
 だが少なくとも、受け入れては貰えそうだ。
「いや、世話になるのはこっちだ」
 そう言って、頭を下げる。
 本当にありがたい。
「いえ、お腹空いてるんでしたよね? まだ準備中なので、こちらで少し待っていて下さい」
 そうして、何の躊躇もなく中に案内される。
「あ、私も準備手伝うよ」
 そう言ってキッチンに消えた名雪と秋子さんを、案内されたリビングで待つ。
 不思議な気分だったが、違和感もなかった。
 この親子の雰囲気のせい、だろうか。
 ここでは、細かい事を気にしなくても大丈夫。
 なんとなく、そう思えた。

 やがて、案内された食卓を3人で囲む。
 俺が何処かに置き忘れてきた、懐かしくて温かい風景。
 二度と見ることはないと思っていた風景。
 それこそ、幻のようで。
 だけど、確かに此処にあって。
 何となく、涙が出そうだった。

「それで、この後はどうするんですか?」
 食器を片付けながら、秋子さんが聞いてくる。
 もはや、昔からの家族のように馴染んだ雰囲気。
 それでも、自分の立場を忘れるわけにはいかない。
「そうだな、とりあえずは宿の確保だが……」
「それでしたら、泊まっていってください」
 笑顔でそんなことを言ってくる秋子さん。
「……いいのか?」
 一応、俺は若い男なのであって。
 普通は色々と問題がある気がするのだが。
「心配しなくても部屋は空いてますから」
「いや、そういう心配ではなく……」
「大丈夫ですよ、往人さんなら」
 なおも言い募る俺に対して、笑ってそう返してきた。
 本当に、あれだけの時間で信用して貰えたらしい。
 ここまで来ると、マイペースとも違うような気がする。
 さすがに、裏があるとも思えないが。
「……そうだな、今日はお世話になるか」
 何にしても、これ以上無理に断るつもりもなかった。
 そもそも、俺もさっき家族のような雰囲気だと思っている。
 だからおそらく、ここではこれが自然なのだ。
「それじゃあ、お部屋の用意をしてきますね」
 すでに用意されていたような言葉と共に、部屋を出ていく秋子さん。
 こうして、俺の今日の宿が決まった。

 宿も決まってしまえば、この時間からやることもない。
 とりあえずと、リビングでボーっとテレビを見ていると、名雪が声を掛けてきた。
「ねぇ、またお人形さん見せて」
「いいぞ」
 特に気にもせず頷き、後ろのポケットから人形を取りだす。
 それをテーブルの上に置くと、人形と睨めっこを始める名雪。
「うー……」
 いきなり人形を掴んで、グルグルといろんな角度から眺めてみたりもする。
 ひととおり眺めると、またテーブルの上に置いて、俺の方に顔を向けた。
「ねぇ、またお人形さん動かして」
「……は?」
 いきなり言われて、少し面食らう。
 確かに、元々は人形劇を見ていたのがきっかけだったが。
 もしかして、人形が動く仕掛けを捜していたのだろうか?
「おい、仕掛けなら探すだけ無駄だぞ。そんな物はないからな」
「そうなの?」
 そう言われても納得がいかないらしく、今度は俺のポケットの中を探り出す。
「って、何をするっ」
「だから、仕掛け」
 どうやら人形の方ではなく、俺の方に仕掛けがあると思ったらしい。
 それ自体は間違っていないが、触られてわかるような物でもない。
 そして、そうやって無遠慮に触られるのも、さほど気分が良い物ではない。
 仕方なく、体を起こして名雪の方に向き直る。
「あら? どうしたの?」
 ちょうどそのタイミングで、秋子さんもリビングに入ってきた。
 そして、困ったような顔をしていた名雪に声を掛ける。
「さっき、このお人形さんが動いてたんだけど、仕掛けがわからないんだよ」
「あら、それは不思議ね。お母さんにも見せて貰えないかしら?」
 いいよ、と、名雪が秋子さんに人形を渡す。
 人形を受け取った秋子さんは、神妙な顔つきで人形を眺めていた。
 ただ、その目は人形よりも遠くを見ているようだった。
 そして、真剣な目のまま、顔を上げる。
「往人さん、動かして見せてくれませんか?」
 そう頼んでくる秋子さん。
 その顔は、かなり珍しい表情な気がした。
 何かを見極めるための、真剣な目。
「そうだな、サービスだ」
 俺としては、その頼みを断る理由は何もない。
 むしろ、泊めてもらうお礼にもなるだろう。
 俺は人形を受け取ると、そのままテーブルの上に寝かせた。
 手をかざし、念を送る。
 ぴっ、とことことこ……
「わー……」
「あら……」
 感心した表情で人形を見つめる2人。
 とことことこ……
「やっぱり……」
 何か秋子さんが呟いたようだったが、よく聞き取れない。
 気にしないことにして、念を送り続ける。
 とことことこ……
 人形はずっと、歩き続ける。
「何か、他の動作はしないんですか?」
「うっ……」
 ……ぱたり
 秋子さんの突っ込みを受けて、一瞬硬直してしまう。
 その間に人形への念も途切れて、倒れた。
「……くー」
「って、そっちも寝るなっ」
 ばっ……ぽこっ
 名雪が寝ていることに気が付いた俺は、即座に人形を立ち上がらせ、跳び蹴りを仕掛ける。
「……あれ? わたし、寝てた?」
「思いっきりな」
 名雪が眠るのは、前例があるだけにある程度は予想していたが。
 しかし、俺の人形劇には本当に催眠効果でもあるのだろうか?
 他に前例はないから、名雪が常に眠たいだけだと思いたいが。
「うー……やっぱり、仕掛けがわからなかった」
 悔しそうに呟く名雪。
 ただ、問題点はそれ以前だと思う。
「その前に、せめてちゃんと起きてる状態で見てくれ」
 そもそも、どの程度までしっかりと劇を見れていたのかが疑問だった。
「だって、眠いんだもん」
「お子様か、お前は」
 なおも理由になってない理由を投げてくる名雪。
 正直、種明かしをする気も無くなってきた。
「とにかく、これには仕掛けなんて無いんだ。それで納得しておけ」
「うー……」
 明らかに納得はしてない様子で睨んでくる。
 もっとも、迫力も何もない睨み方だったが。
「そうなんですか……凄いですね、本当に」
 そんなやり取りをしている内に、秋子さんの方は素直に信じたようだ。
 娘の方もこうなら、色々と楽だったのだが。
「うー……仕掛け……」
「ほら、名雪。お風呂入ってるわよ」
 相変わらず納得のいっていない名雪を、秋子さんが促す。
 名雪もしばらくは睨み続けていたが、やがて仕方なしと言った風に2階へ消えていった。
「往人さんも、名雪が出てきたらどうぞ」
「ああ、わかった」
 そう言った秋子さんもまだ仕事があるのか、リビングから出ていく。
 1人残された俺は、またテレビに目を向けていた。
「絶対、なにかあるんだよ……」
 もう一度部屋の前を通った名雪の、そんな呟きを聞きながら。

(うー……意地悪だよ……)
(でも……その辺も似てる、かな?)


8.夢の跡 ――dreams successor

 なおもテレビを見続けていると、風呂から上がった名雪が入ってきた。
「おやすみー」
 入ってくるなり、ずいぶんと眠そうな声で言ってくる。
 どうやら、その挨拶のためだけに顔を出したらしい。
 まだ時間は22時にもなっていないのだが。
「ずいぶん早いな」
「そうかな? これでも、いつもより遅いんだけど」
「……そうか」
 よく眠る奴だとは思っていたが、さすがにこの時間から寝るとは思わなかった。
 小学生なら、この時間に寝るだろうか?
 そんなことを考えていると、何か言いたげにこちらを見ていた名雪と目があった。
「なんだ?」
「夜は、おやすみなさい、だよ」
「……は?」
 返ってきたのは、そんな言葉。
 そんなことは流石にわかっているのだが。
 それでも、名雪の表情は変わらない。
 つまり……。
「……おやすみ」
「うん。おやすみー」
 それだけの挨拶を交わす。
 名雪はそれだけで笑顔になって、部屋を出ていった。
 変なところで律儀というか……。
「あ、往人さん、お風呂空きましたよ」
「っと、そうだな」
 続いて顔を出した秋子さんに言われ、立ち上がる。
 何にしても、久々にゆっくり出来ていた。

 風呂から上がると、またリビングでテレビを眺める。
 単純に、やることがないのだ。
 こうやって、無駄に時間を潰すことは慣れているのだが。
 そもそも、ゆっくり出来ていること自体が珍しいことだった。
「暇だ……」
「往人さんは、まだ寝ないんですか?」
 そのままリビングでボーっとしていると、秋子さんが入ってきた。
 どうやら、秋子さんも風呂上がりらしい。
「さすがにこの時間はまだ起きてるぞ」
「そう、ちょうどよかったわ」
 そう言って、俺の対面の席に座る。
 その顔は、さっきも見た真剣な物だった。
「少し、お話があるんですけど。よろしいですか?」
「……ああ」
 改まって聞かれると、少し緊張してしまう。
 軽く頷いて、じっと用件を待つ。
「また、先ほどの人形を見せて貰えますか?」
「別に良いが……」
 その言葉を聞いても、未だに意図が掴めなかった。
 怪訝に思いながらも、人形を手渡す。
 それを受け取った秋子さんは、どこか懐かしそうな目で、その人形を眺めていた。
 そして、呟く様に聞いてくる。
「これは、お母さんから貰った物ですよね?」
「……なぜ知ってる?」
 その内容に、俺は動揺を隠せないでいた。
 確かに、この人形は母親に貰った物だ。
 俺の家系が、ずっと継いできたとされる人形。
 隠してきたことでもないが、まだ秋子さんには喋っていないはずだ。
 こんな話をした人が居たとも思えないし、だとすれば……。
「やっぱり、そうでしたか」
 驚いている俺を見て、秋子さんはゆっくりと笑う。
 それは優しい、母親の表情だった。
 その表情で、俺の気持ちも落ち着いていく。
「昔、同じ物を見たことがあったんですよ。あなたのお母さんのはずです。苗字が、同じでしたから」
「そう、か……」
 その表情の力と、言葉で納得する。
 俺の家系は、代々旅を続けていた。
 俺の母がこの街に来たことがあったとしても、別に不思議ではない。
 そして、この人に出会っていたとしても……。
「懐かしいですね……もう、20年以上前になりますか」
 そう言って、昔話を始める秋子さん。
 それはまだ、俺が生まれる前の話。
 1人の少女が、旅芸人のお姉さんと出会う話。
 街で見かけて。
 その芸の虜になって。
 一緒に遊んで。
 沢山の夢を語り合って。
 そして、笑顔で別れる。
 それだけの、小さなお話。
 その中には、俺の知らない母の姿が一杯に詰まっていた。
「……」
 そんな話をずっと、静かに聞いていた。
 俺は、母のことをほとんど覚えていない。
 俺がまだ小さい時に、目の前からいなくなってしまったから。
 それから、母を捜して旅に出た。
 母が居ないとわかってからは、母に言われたことを受け継いで、旅を続けてきた。
 そうすることで、母に近付けるような気がしたから。
 その旅は未だ続いている。
 ゴールはまだ見えなくても、少しだけ、近付けたような気がした。
「お話は、これでおしまいです」
 そう言って、もう一度笑う秋子さん。
「ありがとう……ございます……」
 答える声は、震えていた。
 視界が少しずつ歪む……。
「あらあら……」
 そんな俺を見て、少し困ったように微笑んでくれる人。
 この街に来て良かったと、心の底から思えた。
 暖かい、街だった。

 しばらくして、さすがに俺も落ち着いてきた。
「ありがとうございます、本当に」
「いえいえ……ああ、ところで」
 改めてお礼を述べる俺を制して、秋子さんが訊ねてくる。
「まだ、旅は続いているんですよね?」
「ああ」
 素直に頷く。
 この人は、全てわかっている人だから。
 俺の旅の目的も。
 それが、どれだけ厳しいのかも。
 そして、どれだけ続いているのかも。
「と言うことは、すぐに旅立つんですか?」
「そうしたいのは山々なんだが……」
 そう言って、苦笑する。
 結局の所、この街に着いたのも偶然、お金が無くなったからだった。
 それからこの街で2日間。
 不思議な縁に助けられて、生き延びてはいる。
 だが、肝心の大道芸はほとんどやれていなかった。
「そうですか……ちょっと、待ってて下さいね」
 そんな俺の表情から何を悟ったか、秋子さんが立ち上がり、別の部屋に消える。
 戻ってきた手に握られていたのは、何も書かれていない白い封筒。
「どうぞ」
 渡されたそれを何気なく受け取り、中身を確認する。
 中には、お札が数枚入っていた。
「って、泊めてもらった上でこれはさすがに……」
 ただでさえ、破格の待遇で泊めてもらっている。
 その上でここまでしてもらうのは、さすがに心苦しかった。
「それでは、大道芸の見物料、と言うことにしておいてください」
「だとしても、多すぎる」
 なおも渋る俺。
 そんな俺に、優しく笑いかけて。
「別に、構いませんから。ただ、その替わりに……」
 そう言った秋子さんの顔を見て、言葉に詰まる。
 何も変わっていないはずの笑顔に、不思議な力が宿っていた。
 その笑顔のまま、続ける。
「絶対に、見つけてあげてくださいね」
 その言葉を聞いて、わかったような気がする。
 翼を持った少女を見つけること。
 それは元々、俺の母親の夢だった。
 それを俺が継いだのと同じように、秋子さんもまた、継いでいるのだ。
 ただ、自分が旅に出ることは出来ないから。
 だからこそ、俺に託す。
 同じ夢を持っているから。
 同じ人から託された夢だから。
 だから。
「……わかった」
 俺はこれ以上、否定する言葉を持たなかった。
 ただ、背負う物が増えただけ。
 それは、その金額以上に重くて。
 だからこそ、背負っていかなければならなかった。
 その想いをいつか、その少女に届けるのだから。
 だったらその想いはきっと、多い方がいい。
 そのために、歩き続けるのだから。

 気が付けば、随分と時間が経っていた。
 それだけの間、話し込んでいたらしい。
 さすがにそろそろ、眠くなってきた。
「それじゃ、俺はそろそろ寝る」
「はい、冷え込むので、気を付けてくださいね」
 簡単な挨拶をして、あてがわれた部屋へと移動する。
 部屋の中はしっかりと暖房がかかっていて、暖かい。
 すでに敷かれていた布団にくるまり、目を閉じる。
 疲れていたのだろう。
 眠りは、すぐに訪れた。


(もう一度、逢えるなんてね……)
(……頑張ってくださいね、往人さん)


9.生まれたての風 ――birth of air

 目が覚めると、すでに日が昇りきっている時間だった。
 久しぶりにゆっくりとした眠り。
 体調もかなりいい。
 1つ伸びをすると、食卓へと向かった。

「おはようございます、往人さん」
「おはよう」
 食卓につくと、朝食には遅い時間にもかかわらず、秋子さんが笑顔で出迎えてくれた。
 名雪の姿は見えない。
 寝坊なのか、それともすでに朝食を済ませているのか。
「コーヒーでいいですか?」
「ああ」
 頷いて、昨日と同じ席に座る。
 程なくして、俺の目の前にトーストとコーヒーが並んだ。
「そう言えば、名雪は?」
 トーストをかじりつつ、秋子さんに尋ねる。
「部活があるので、出ていきましたよ」
「そうか」
 ちゃんと挨拶をしておきたかったが、仕方がない。
 そんなことを考えながら、いつもよりじっくりと味わって食べる。
 ただのトーストのはずが、やっぱりこの家だと、美味しく感じた。

 朝食も終わり、部屋に戻って荷物を片付ける。
 もっとも、片付けなければならないほどの荷物も無いが。
 せいぜいが、着替えぐらいの物だった。
 もう一度部屋を見回し、鞄を背負って部屋を出る。
 玄関まで来たところで、秋子さんが声を掛けてきた。
「もう、行くんですか?」
「あんまり長く世話になるわけにもいかないからな」
 それだけの挨拶。
 言うべき事は、昨日の内に全部言っていた。
「とりあえず、名雪にもよろしく言っといて下さい」
「はい。行ってらっしゃい」
 すでに見慣れた笑顔に見送られ、外に出る。
 あれだけ寒かった気温も、すでに気にならなくなっていた。

 駅に行く前に、商店街に立ち寄る。
 最後にもう一度、ここで芸をしたかった。
 母も芸をした場所で。
 相変わらず収入はなかったが、それでも少しだけ、近付けたような気がした。

 そして、駅前。
 さっきから雪がちらついており、人通りも少ない。
 その中で、ベンチに座っている男子が1人。
「風邪、ひくなよ」
 それだけを呟いて、駅の中へと歩き出す。

 俺の旅を続けるために。
 ――俺が背負う全ての想いを、空の向こうに届けるために。


(寒い……ん?)
「雪、積もってるよ」
「そりゃ、2時間も待ってるからな……」

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