雨上がり


 冷たい風が吹いてふと、空を見上げた。
 今にも雨が降り出しそうな、どことなく重い曇り空。
 私は傘を持って出てきたから、あまり関係ないのだけれど。
 耳に入るのは、急いでいる足音。
 不満そうな独り言。
 そんな中に混じって、微かに、誰かを呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 聞き取れないような囁き声。
 反応したのも多分、私1人。
 流れに逆らうようにただ、立ち尽くす。
「……呼んだ?」
 小さな呟き。
 答える声は無い。
 それでも確かに、呼ばれたと思った。
 誰の声だったのかも分からないけれど。
 私を呼んでいたのかも、分からないけれど。
 もう一度見上げた視線の先には、遠い曇り空。
 見慣れたはずの空から、何故か目が外せずに。
 確証はない。
 だけど、放ってはおけなくて。
「待ってて……」
 小さく呟いてまた、歩きだす。
 少しでも、空に近い場所へ。


 そこは、小さな山の上だった。
 特に整備されているわけでもない、普通の山。
 普通の登山道からは少し逸れた小さな空間に、ぽっかりと空いた穴。
 開けている視界が気持ちいい。
 いつも人の居ない、私のお気に入りの場所。
 知られてないと言うよりは、わざわざ足を止める場所でもない、と言うことなんだろうけれど。
 それでも私は、その場所が好きだった。
 ここからなら、少しは高くに感じられるから。
「……ふぅ」
 さすがに山道は少し疲れる。
 軽く息を吐いて、その空間に踏み込んだ。
 今日もやっぱり、他には誰も居ない。
 こんな天気だし、仕方がないけれど。
 それに、私は1人で居る方が好きだから、問題はない。
 静かで、どこまでも透き通っていけるようで。
 小さな私が、それでもそこに居られる感覚。
「……あ」
 ふと顔に当たる、冷たい線。
 それは一瞬で、だけど、繰り返されて。
 微かな時の間で、徐々に強くなっていく衝撃。
 避けるように、傘を開く。
 いや、そうじゃなくて――
「泣いて、いるの?」
 無意識に呟いた言葉。
 見上げた空は、自らが開いた傘に切り取られて、表情はもう見えないけれど。
 視界の隅で捉えたそれは、やっぱり重そうで。
 自らが抱えた重みを抱えきれないように。
 ただ、雨は降る。
 零れ落ちてくる想い。
 零れ落ちてくる痛み。
「泣いて、いいよ……」
 それを少しでも多く、受け止められるように。
 そして私の姿が、少しでも空から見えるように。

 冷たい雨が降る。
 激しく、強く。
 それは長く続く雨ではないと、わかってはいるけれど。
 それでもそれは重く、痛い。
 だから、受け止める。
 だから、此処にいる。
 それが、私の選んだ答えだから。
 それがたとえ、誰にも届かない答えだとしても。

 それでもやがて、雨は上がる。


 少しずつ弱くなっていく衝撃。
 遠ざかる雨音。
 目に見える雨粒が小さくなったのを確認して、傘の外に手を伸ばす。
「……お疲れさま」
 誰にともなく呟いて、傘を閉じた。
 雨はまだ少しだけ残っているけれど、これぐらいなら傘は要らない。
 むしろ自分の体で直接、雨を感じていたかった。
 その微かな雨も、すぐに上がる。
 改めて見上げた先は、相変わらずの曇り空。
 雨が降る前と変わりがないように見える空は、それでも何故か、もう雨が降ることはないように思える。

 ――違うのは空ではなく、その間を繋ぐ空気。

 不思議なほどに澄み渡った空気。
 冷たいその空気を、胸いっぱいに吸い込む。
 そこに、雨の匂いはなかった。
 理由はわからないけれど、とてもすっきりして思える。
 それこそ本当に、大泣きした後かのように。
「私も泣ければ、良かったのだけれど」
 呟いて、踵を返す。
 私の役目は、ここまで。
 何が出来たのかもわからないけれど。
 ただ、私がそうしたかっただけだから。
「……うん、気持ちいい」
 もう一度、息を吸い込む。
 心の中に染み込んでくる清涼感。
 今の空気が、本当に心地よかった。
 歩きながら見上げた空は、まだ曇っているけれど。
 今はまだ、もう少し、そのままでいて欲しかった。

 私には、まだ。
 こうする事を選んだ私には。
 そして、こうする事しかできなかった私には、まだ。
 太陽の光は、眩しすぎるから――

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