とおり雨


 雲が流れてくる。
 ゆっくりと。
 ゆっくりと。
 灰色が、空を覆い尽くしていく。
「うん、いいお天気」
 自嘲ではなくそう呟いて、外に出た。
 明るいはずの陽射しも、分厚い雲に遮られ。
 薄暗い、不気味とさえ言える雰囲気。
 だけど、私はこの雰囲気が嫌いじゃない。
 多分、世間一般から見ると、おかしな人なんだろうけど。
 それでも私は、この空気が好きだった。
 これから始まる、宝石の乱舞。
 それを思うだけで、胸が弾む。
「そろそろ、かな?」
 もう一度、空を見上げた。
 すでに灰色に包まれ、重く押しつぶされるような空。
 嵐の前の静けさと言うには、妙にざわついている。
 だからこそ伝わる、もう少しだと言う感覚。
 後少し。
 後少し。
 まるで開演前のブザーのように、遠くで響く雷鳴。
 私の側を吹き抜ける、冷たく湿った風。
 そして、ポツポツと落ちてくる雫。
「――あ」
 それを身体中で感じて、笑みがこぼれる。
 身体中を跳ね回る、冷たい息吹き。
 その1つ1つが、小さな光を抱えて。
 降りてくる粒子は、それでも儚く。
 その全てを受け止められるように、手を広げた。

 目を閉じれば、流れ込むイメージ。
 空を翔る翼。
 風に踊る結晶。
 そしてまた流れゆく、光の束。
 何度も巡る旅景色。
 遠い遠い昔から、何一つ変わらない。
 その営みを、少しでも感じられるように。
 その、小さな欠片を――

「……おーい?」
 遠い声が聞こえてふと、我に返る。
 耳を打つのは、相変わらずの雨の音。
 そんな中、目の前には青い傘。
 少し視線を下げれば、その傘を差した男の子。
「えっと……?」
 とりあえず、首を傾げてみたりする。
 状況がよくわからない。
 と言うよりは、どうして声を掛けてきたのか、が。
「あ……と、大丈夫?」
 そんな私を見て、その人が声を掛けてくる。
 多分、さっきと同じ声。
 そして、手が私の方に差し出されて……目の前で、軽く振られる。
「……は?」
 思わず硬直してしまう。
 その間も、目の前の手は振られ続けて。
 たっぷり10秒ほどかけて……その意味に、気付いた。
「あ、いや、大丈夫だから」
「そう? なら、いいんだけど」
 そう言って、目の前の手は下げられた。
 それでも、心配そうな――見ようによっては不審気な視線はそのまま。
(確かに、この状態じゃね)
 そう思いながら、改めて自分の姿を見下ろす。
 雨に当たり続けた体は、すっかり冷え切って。
 気が付けば、濡れた服は張り付いて、透けていたりもする。
 ……ボロボロに見えるのは間違いない。
「えっと……ほら、雨、好きだし」
 とりあえず、そんなことを口走ってみる。
「それ、フォローになってないと思うけど」
 案の定、そんな事を言われた。
「……それじゃあ、家、すぐそこだしってのは?」
「……どっちかと言うと、墓穴?」
 なおも言い募ってみるけど、どうしたってこの姿じゃ説得力が無いらしい。
「大丈夫だと思うんだけどなぁ……」
「いや、だったら家の中にいなよ」
「それはだから、雨好きだし」
「そういうものなのかなぁ……」
 平行線。
 まぁ、それは仕方ないと思う。
 私と会話をしていること自体が、珍しいんだから。
「そっちも、どうして話しかけてきたの?」
 雨の中、1人で踊っている。
 それは、絵にはなるのかも知れないけど、あんまり関わりたくはないと思う。
 ……自分で言うことではないのかも知れないけど。
 実際、話しかけられたのは今回が初めてだし。
「……なんとなく?」
 だけど、その男の子も首を傾げるだけで。
(似てるのかな、結局は)
 誰にも聞こえないように呟いて、軽く溜息。
「その反応、なんかむかつく」
「お互い様、じゃない?」
「まぁ、かも知れない、けど」
 それで、会話は途切れた。

 降り続く雨の音。
 流れていく欠片。
 変わらない景色。
 まるで、時間が止まったように。
 ただ、何を話すでもなく。
 何を見つめるでもなく。
 その場に、2人で立ち尽くす。

 やがて、凍った時間は動き出して――

「……あ」
 音が止む。
 思わず声を上げ、空を見上げる。
 また流れていく雲。
 その先に覗くのは、朱と蒼の境界線。
「雨、止んだね」
 視界から、青い色彩が消える。
 視線を戻すと傘を閉じ、同じ方向を見つめている男の子。
「……虹」
 呟いた声が聞こえて、もう一度見上げた空。
 空と大地を繋ぐ、カラフルな橋。
 祭りの最後を飾る、大きな光の輪が見えて。
「うん、これだよね」
 なんとなくまた、笑みがこぼれた。
「……笑えるなら、大丈夫かな」
 また呟きが聞こえて、男の子の方に視線を戻す。
 目が合った男の子の顔も、綻んでいた。
「それで結局、なんだったの?」
 よくわからないままに、そのまま見つめ合って。
「ただのお節介……もしくは、気紛れって所かな」
 そんなことを言いながら笑われて、なんとなく視線を逸らす。
 なんだかもう、本当にどうでもいいような気がしていた。

「それじゃ、ね」
 それだけ言うと、男の子は何事も無かったかのように去っていく。
 私も、呼び止める事もしない。
 ただ小さく、バイバイと手を振るだけ。
 それで終わり。
 多分、次に会う時は、すれ違うだけ。
 この話は、それでおしまい。
 それ……だけ。
(……寂しい?)
 ふと浮かんだ感情を、慌てて打ち消す。
 確かに寂しい気はするけど、それを認めるわけにはいかない。
 私は、大丈夫。
 だからこそ、これでおしまい。
 もう、あの男の子とは会えない方がいい。
 なんとなく、そんな気がするから。
「……バイバイ」
 今度は口に出して、私もその場を離れた。

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