2人の歯車


 学校からの帰り道。
 いつもの公園を目指して、走る。
 公園の入り口で立ち止まり、息を整えながら辺りを見る。
 季節は、冬。
 空こそ晴れてはいるものの、吹く風は冷たく、人の影はほとんど見えない。
 そんな中でベンチに座っている人影を見つけて、ゆっくりと近づいた。
「やっ」
 軽く片手を上げながら挨拶をする。
 それが聞こえたのか、その俯いていた人影――少女も顔を上げ
「……や」
 と、同じように軽い挨拶を返してきた。


 待っていた。
 公園のベンチに座って、ただ1人。
 吐く息は白く、たまになんのためにここに座っているのか疑いたくもなった。
 その度に、あの人が来たときに誰もいないと寂しいだろうから、等と自分に言い聞かせる。
 ……待ち続ける本当の理由には、とっくに気が付いているのだけれど。
 そうして、待ち続けて。
 ふと、視界に影が差す。
「やっ」
 同時に、頭上から聞こえる声。
 見上げると、さっきまで待ち続けていた人が、こちらに笑いかけている。
「……や」
 応えるように、私も軽く言葉を発する。
 ただ単に、この人の真似をしただけの挨拶。
 それだけのことが、なぜだか心地よかった。
「いつも思うんだけど、寒くない?」
 目の前の人は、そう言いながらいかにも寒そうに手を擦り合わせている。
「もう、慣れました」
 笑顔でそう返したけれど、それでも、風が冷たいことに変わりはなくて。
 少しだけ、体を震わせる。
「慣れても、寒いものは寒いって」
 その様子を見て、目の前の人も同じように体を震わせた。
 確かに今日はいつもより風が冷たいような気がする。
 今が1年で1番寒くなる時期だから、仕方がないのかも知れないけれど。
 それとも……私が震えた理由は……
「……あれ? どうしたの?」
 そのまま黙り込んでしまった私を見て、心配そうに声を掛けてくる。
 その様子に何度か迷い、口を開いては閉じ――意を決して、話しかけた。
「今日は、聞きたいことがあるんです」
「何? 答えられることなら、何でも答えるけど」
 目の前にある笑顔に、ちょっとだけの痛みを感じながら。
 止めることの出来ない歯車を回すために。
 もう一度、ゆっくりと、口を開いた。
「――好きな人って、居ますか?」


「――え?」
 最初は、その質問の意味がわからなかった。
 それでも、目の前の少女の真剣な眼差しを受けて、たっぷり10秒ぐらいかけて、ようやく頭が理解する。
 だけど、答えはよくわからない。
 好きな人。
 本当に、心の底から好きだと言える人。
 そんな人が、いただろうか……。
「――あ」
 ふと、1人の少女の顔が浮かんだ。
 だけど、その答えを信じる事が出来なくて。
 軽く首を振って、その顔を振りはらう。
「いない……のかな。よくわからないけど」
 結局、返せたのはそんな答え。
 それでよかったのかどうかもわからないけど、これは正直な気持ちだった。
「でも……どうして、そんなことを聞くの?」
 話を進めるために、問い返す。
 ……あんまり、さっきの結論を確認したくもないから。
「私は……多分、いるんだけど」
 静かに、そんな声が返ってきた。
「こんな気持ちは初めてだから、どうすればいいかなって。男の子の意見も、聞きたくて」
 少女の方は顔を伏せていて、その表情まではわからない。
 わからないけど――なぜだか、体が震えている気がした。
 寒いから、だろうか。
「……そう、なんだ」
 僕もそれだけ言うと、顔を伏せた。
 自分の心臓の鼓動が聞こえる。
 どくんどくんと激しく動いている。
 おかげで胸が痛い。
 理由はよくわからないけど。
 ただ――
「僕も経験はないけど……それでもいいなら」
 無理矢理にでも笑って、話しかけた。


「ありがとう……」
 呟いて、伏せていた顔を少しだけ上げる。
 目の前にあったのは、何かに耐えているような笑顔。
 覚悟はしていたつもりだったけど……やっぱり、痛い。
 だけど、それでも笑ってくれたのを、無駄にしてはいけない。
「それで……どうすればいいのかな」
 なにも気が付かなかったことにして、話を進める。
 ただ、相手の顔を見ることは出来なかったけど。
「やっぱり、告白とかした方がいいのかな。迷惑だったりしないかな」
「迷惑なんて事は、ないと思う」
 はっきりとした声がして、顔を上げる。
 さっきまでの笑顔じゃなくて、真顔でこちらを見つめていた。
 そして、はっきりとした声で言葉を紡ぐ。
「自分のことを好きでいてくれる人がいるって言うのは、支えになるから。その人を好きになれるかどうかは別だけど、それでも……嬉しいと思う」
 そこまで言ってから、ふと、顔を背けて、
「まぁ、それまでの関係が壊れる……と言うか、変わるのは恐いんだけど、ね」
 急に恥ずかしそうに、そう付け加えた。
「そっか……嬉しいものなんだ」
 その答えは、私を勇気づけるには十分だった。
 確かに変わる事は恐い。
 だけど、すでに変わりはじめている。
 それは絶対に止まらない――止めない。
 だから、それを後押ししてくれる答えが、嬉しかった。
「……ありがとう」
 もう一度、お礼を言う。
 今回は自然と、笑みがこぼれた。

「それでは、今日はそろそろ行きます」
 そう言って、立ち上がる。
 そして、そのまま背を向けて――
「あ……最後に、1つだけ聞かせて」
 その背中に、声がかかった。
「その人って、どんな人?」
 心なしか、震えている声。
 それでも、その中に強さを感じる声。
「どんな、と聞かれても困るけど……」
 背を向けたまま、答える。
「不思議なんだけど、とっても優しい人」
 多分、それが正直な答え。
 私の惹かれた部分。
「……そっか」
 それきり、声は聞こえなくなって。
 ただ、視線だけを背中に感じる。
「それでは……また明日」
 呟いて、歩き出す。
「あ……うん」
 小さくなる呟きを後ろに聞きながら。
 ――1度も振り返らずに。



 考える。
 あの時感じた感情は何だったのだろう。
 ……多分、それは改めて考えることでもなくて。
 ただ、その答えを認めたくないだけ。
 だけど、いつまでもそうも言っていられなくて。
 確かに、変わることは恐い。
 でも、すでに変わり始めていて。
 何もしないまま失うことは、それ以上に恐かった。
 だったら、どうすればいいんだろう。
 ――その答えは、さっき、少女に向かって自分で言っていた。
(どうして、何だろうなぁ……)
 ただ1つ、そのことだけが引っかかって。
 色々と、彼女のことを思い返してみた。

 あの少女を初めて見かけたのは、秋口頃。
 今と同じようにベンチに座って、ただボーっと風景を眺めていた。
 通りがかった僕と偶然視線があって、軽く会釈をして別れた。
 そんなことが何回か続いて、なんとなく、僕から話しかけたんだったと思う。
 最初はただの挨拶程度。
 それから、ちょっとした世間話になって。
 その流れで、個人的な話も色々して。
 後は、そんな記憶しか残っていない。
 ただ、いつも穏やかで。
 季節が変わり、寒くなっていく中で、その空間だけは温かくて。
(――ああ)
 ただ、何も考えずに安らげる場所だったんだなぁと。
 つまり、結局の所は、
(何もなかったから……なのかな)
 理由は、そんな単純なこと。
 だから多分、重要なのはそこじゃなくて、これから先。
『また明日』
 ふと、声が響く。
 彼女が、去り際に残したセリフ。
 初めて聞いた様な気がする言葉。
 その意味。
 あんまり深い意味はないのかも知れないけど。
 ただ、それでも。
「明日――明日、か」
 明日また、きっとあの場所で会える。
 全てはそれから。
 会えたら、何を話すんだろうか。
 そんなことを、ずっと考えていた。


 密閉された空間に、1人で佇んでいる。
 何のことはない、自分の部屋。
 いつもなら安心できるこの部屋も、今はとても不安だった。
 ただ、1人で。
 全ての思考が内向きになって。
 それが嫌で、あの場所にいたはずなのに。
 それが元で、その思考に潰されかける。
 だけど、悪循環ではない――はず。
 それに今日の事は、すでに昨日覚悟していたことのはず。
(今更……何を悩んでいるんだろうね)
 そして、意味のない自問自答を繰り返す。
 いくら繰り返しても、何も変わることのない答え。
 その答えは、すでに形を持って動き出している。
 もう、迷うことすら出来ない。
『――支えになるから』
『それでも……嬉しいと思う』
 ふと思い出す、彼の言葉。
 それだけで、彼が後押ししてくれている気がした。
 だから。
「また――明日」
 来てくれるのかもわからない。
 だけど、来てくれるはずだと信じて。
 1人きりだとすぐに不安になる、弱気な心を振りはらうように。
 もう1度、彼のことを思い返した。

 そこはお気に入りの場所だった。
 なにが、というわけでもなかったけれど。
 ただ、偶然辿りついたその場所は、その頃は紅葉が綺麗で。
 なんとなく、ボーっと眺めていたような気がする。
 そうしている内に、彼に出会って。
 初めのうちはずっと、遠くから見ていた。
 ただ漠然と、この辺りの人なのかなと思っていた。
 それから、何度か目があったりして、向こうから話しかけてくるようになって。
 大したことでもないはずなのに、何故か嬉しくて。
 紅葉が終わっても、刺すような空気の中を待ち続けて。
 ――その事に気が付いたのは、つい最近だったけど。
 そんな事にも気が付かなくて済むぐらい、幸せだった日々。
 そして、きっとこれからも――
(……そう、だね)
 変わらない物なんてないのに、変わることが恐くて。
 だけど、その変わり続けてきた結果が今なのだから。
 きっと、これからももっと幸せになっていくはず。

 そう信じて、明日を迎えた。



 学校からの帰り道。
 いつもの公園を目指して、走る。
 いつも以上に急いで。
 公園の入り口で立ち止まり、深呼吸をして息を整える。
 季節は、冬。
 痛いぐらいに冷たい空気が肺に取り込まれ、少しずつ周りを見る余裕も出来てくる。
 空こそ晴れてはいるものの、吹く風は冷たく、人の影はほとんど見えない。
 そんな中、1人の少女の姿を探す。
 その少女は、いつもと同じようにベンチに座って、どこか遠くを見つめていた。
 心臓の鼓動を落ち着かせるように、ゆっくりと近づく。
「…………」
 だけど、声が出ない。
 未だに、目の前に少女が居ることが信じ切れなくて。
 そうしている内に、少女がこちらに気が付いたのか、視線をこちらに向けてきた。
「……やっ」
 なんとか、片手を上げながら挨拶をする。
 いつもと同じに、とはいかなかったけれど。
 それでも少女の方は、いつもと変わらない、穏やかな笑顔で
「……や」
 と、いつもどおりの挨拶を返してきた。


 待っていた。
 公園のベンチに座って、ただ1人。
 吐く息は白く、それを運ぶ風は冷たく。
 ただ1人で座っている自分が惨めにも思えて。
 それでも待ち続ける。
 来てくれるかもわからない人を。
 絶対に来てくれるはずだと信じて。
 ふと、気配を感じて視線を向ける。
 そこには、さっきまで待ち続けていた人が、やや複雑な表情で立っていた。
「……やっ」
 それでもいつもと同じように挨拶をしてきて。
 なんとなく、笑いたくなって。
「……や」
 応えるように、私も軽く言葉を発する。
「来て、くれたんですね」
 つい、そんな言葉がついて出る。
「また明日って、言われたから」
 そう答える声も、声だけはいつもどおりで。
「ありがとう……」
 気が付けば、そんな言葉を口にしていた。


「あ……うん」
 どうにも、上手く言葉を繋げられない。
 言いたいことはある。
 だけど、どこからどう話せばいいのかがわからない。
 いつもなら普通に話が出来るのに、少し意識をしただけで頭が真っ白になる。
 ただ、それでも。
「えっと……今日は、言わなきゃいけない事があって」
 それだけは、伝えなきゃいけなくて。
「……はい」
 目の前の微笑みに押されるように、話しだす。
「昨日の――好きな人の事。昨日、帰ってからずっと考えてて」
 実際には、考えるまでもなく。
「好きな人……居たから。だから……」
 そのために、しなきゃいけない事を。
 ここで立ち止まらないために。
 その先に進むために。
 自分が示した道を、歩む手本を見せるように。
「……君が、好きなんだ」


 その言葉を聞いた時、どんな気持ちになるんだろう。
 漠然と、そんなことを考えたことがあった。
 それは遠い昔の話で、その時の答えも覚えてはいないのだけど。
 今、それが目の前にあって。
 勝手にそんな気になって、期待していたりしたのに。
 実際に言われてしまうと、何も考えられなくて。
 まだ、実感として自分の中に落ちてきていないのかも知れない。
 他人事のように、そんなことを思って。
 結局――ただ、笑いたくなった。
「ふふふ……あはははははっ」
 声を抑えることすらせずに、ただ、笑う。
「……って、あれ? どうしたの?」
 目の前に、不安そうな顔が映る。
 だけど、そんなことも気にはしない。
「はははっ……」
「あ……泣いて……」
 そんな声が聞こえて初めて、自分が涙を流していることに気付いて。
 ――感情が爆発した時は、自然と涙が溢れるものだから。
 そして、やっと実感として、自分の中に感情が入ってくる。
「はは……は……」
 なんとか笑い声は抑えたけれど、顔はまだにやけていると思う。
 ただ、嬉しくて。
 他にこの感情を表現できる言葉がわからなくて。
 それでも、相手に伝えたくて。
「……大丈夫? ねぇ……うわぁ」
 いきなり飛びついてみたりする。
 初めて触れたその人の身体は温かくて。
「えっとね……私も、今日、言いたかったことがあったの」
 戸惑っている相手を、出来るだけ落ち着かせるように。
「私も、昨日の続きなんだけどね……」
 ただ1つ、改めて実感として得た想いを。
「私もね……あなたが、好きだよ」


「え……?」
 抱きつかれたまま、動きが止まる。
 今の言葉が、頭の中に響く。
 だけど、すぐには信じる事が出来なくて。
「なんで……」
 ただ無意識に、口から言葉が漏れる。
「だって……昨日は……」
「……恐かった、から」
 今度は、少しだけ震えた声。
 そんな声を聞いて、急に自分の心が落ち着いていくのを感じる。
『――変わるのは恐いんだけど、ね』
 昨日、自分で語った言葉。
 確かに恐かった。
 だけど。
『迷惑なんて事は、ないと思う』
 それも、自分の言葉。
 そんな答えは、初めからわかりきっていたはずなのに。
 だから――
「……ごめん」
 一言だけ呟いて、自分からも抱きしめる。
「ううん……私が臆病だっただけだから」
 笑顔でそれを受けとめてくれる少女。
 そんな些細なことが、本当に嬉しかった。



 風が吹く。
 風は相変わらず冷たく、体温を奪うけれど。
 すぐ側にある互いの体温が、それ以上に温かかった。
 やがて、重なっていた影が離れる。
 2人して、照れたような笑みを浮かべながら。
「……行こ」
 何処へ、とは言わない。
「……うん」
 聞き返す必要もない。
 今はただ、2人で居られればそれだけでよかった。
 ただ、差し出された手を、しっかりと握る。

 ――2人の心も、しっかりと繋がるように。

       『大好き、だよ』


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